2010年4月

4月30日

 

稽古終了後、前夜祭(開幕式)対応で外出禁止となる会場を脱出、宿舎でテレビ中継見物。谷村新司出演の豪華歌謡ショー風の前夜祭を見ながら、CG、口パク疑惑で物議を醸した北京五輪、張芸謀演出の「技巧」を再評価。深夜、地響きのような花火音を寝床で。

 

4月29日

 

昼間はプレショーに出演している若ものたちとランチ、夜はメインショー出演の昆劇院メンバーとの会食と、開幕を前にした優雅な休日メニューだったはずが、想定内外の諸問題を解決する過密雑務処理日に。なるほど、この手の仕事は演出業務の守備範囲が広い!

 

4月28日

 

舞台は想定されるアクシデントへの対応リハーサル。昆劇院メンバーはいかにもプロ集団らしく、さまざまなシチュエーションへの解決策を淡々とこなしていく。開幕まで三日。新たに舞台脇に設置する解説画面など、あたらしい課題を抱えながらラストスパート体勢へ。

 

4月27日

 

昨日の一組に引続き、出演する子どもたちのうち残り二組のリハーサル。南京リトル・レッドフラワーの指導者と啓子との二人三脚で、細部の手直しを含めて、手際よく進む。子どもたちひとりひとりの個性とバックグラウンドが見えてくるにしたがい、愛着も深まる。

 

4月26日

 

上演シュミレーション14回。その他、午前中は啓子を中心に子どもたちのリハーサル。並行して細部の手直しいろいろ。万事タイムコード管理下に進行する運営のハードとプログラムの調整に手がかかる。何かとサポートしてくれる音響の島くんの存在がこころ強い。

 

4月25日

 

一説には全国各地からの招待者50万人参加という、本番通りの運営シュミレーション。日本館もフルオープンで対応。プレ、メインショーともに、一日36回の連続上演。出演者の士気高揚のために、ギネス申請でもという冗談も。毎回、観客の反応よく、それが支えか。

 

4月24日

 

昨夕から、啓子、上海入り。今回は子どもの歌部分の振付、および全体のステージングアドバイス兼小生の健康管理者としての参加。本企画への彼女の参画は、病床での譫妄状態からの収穫のひとつ。客席最後列スタッフ席で、一日24回連続上演に立ち会う。

 

4月23日

 

世博局(中国側運営組織)が実施している、実際に来場者を入れての運営シュミレーションに参加。プレ、メインショーともに11回ずつの連続上演をおこなう。オープンしている各国館が少ないせいか、日本館はオープン前に二千人の行列。今後の運営に課題多々。

 

4月22日

 

「談話室」の常連、01さんが亡くなった。ネット上の仮構劇団という「鴎座」妄想にビビッドな反応を示し、ごく初期からさまざまな形で応援を寄せて下さったかけがえのない同行者のひとりだった。合掌。以前、01さん用に特別開設した「ベケットの間」へのリンクです→

 

ベケットの間

 

4月21日

 

午前中、プレショーの最終チェック。映像、照明、音響を一括して自動運転するTCシステムのクゥォリティーがいまひとつ。いまさら言っても仕方がないが、人間が演じるパフォーマンスには、同じく人間が目視し指でQを叩く精密さに、コンピュータがかなうはずがない。

 

4月20日

 

休日。午後、宿舎を出て、旧城内、日本租界と、『ブランキ殺し・上海の春』関連の界隈を足にまかせて歩き回る。三十代のほとんどを費やしたこの作品で、資料だけをたよりに描いたこの町への奇妙な「既視感」。以前と同様、束の間のセンチメンタルジャニー也。

 

4月19日

 

ダニー・ユンとともに、メインショーの仕上げ。終わって、旧フランス租界近辺で会食。料理の選択は、いつもの通り舌の肥えたダニーにおまかせ。まことに上品な上海料理。降って湧いたような話を筋の通った仕事としてまっとう出来たのは、ダニーの協力のおかげ。

 

4月18日

 

プレ、メインともに、単体としては最終の仕上げ段階。23日から迎える運営との共同リハーサルへの体制を整える。最多で一日36回上演という過酷な日々は、いまのところ関係者の誰一人として正確にはイメージできていないはず。夜、共同演出のダニー・ユン、来。

 

4月17日

 

メインショー、手直し稽古。あわせて、関連する照明と音響づくり。連日劇場で稽古につき合う作曲の服部隆之さんのアドヴァイスが、悔しいほどに冷静、的確。祖父良一さん、父克久さん、隆之さんには叔父にあたる黒テント仲間の吉次と、服部家の血は争えない。

 

4月16日

 

プレショーを中心に、最終仕上げにとりかかる。十日前に会った時には、初々しさとともにぎこちなさが残っていた出演者たちが、自分の役割を理解し、それぞれの工夫を重ねてきた様子が伺えてうれしい。いわゆる博覧会ふうのMCの退屈さを逃れるまであとひと息。

 

4月15日

 

ひと通り出来上がった照明をつけながら、通し稽古。関係する企業の技術者との共同作業が楽しい。異分野の人びとからの率直な意見と想像力は、ともすれば舞台の現場感覚で穏健な妥協策へ陥りがちな演出者の尻を叩く。何というか、久しぶりに初心にかえる。

 

4月14日

 

メインショー、照明あわせ。前日黒尾さんがつくった明りをQごとに確認しながら手直し。劇場の座席に机を並べての駆け引きはいつもの通り。舞台照明はそれだけで独立した表現をするわけではない。舞台上のさまざまな要素との連携プレーが必要。根気、根気。

 

4月13日

 

プレショーの照明あわせ。メインショーと比べて機材が少なく、プランナーの黒尾さん、四苦八苦。日中混成の現場スタッフの熱心な対応もあって、夕方までには一応の形が出来上がる。黒尾さんがメインショーの打ち込みにまわったあと、オペレーターと部分修正。

 

4月12日

 

東京で音楽録音を終えた作曲の服部隆之さん、来。男女の歌手や児童合唱を加えてスケール感の増したテーマ曲が、関係者に評判よく、早速、CD化の話が持ち上がっているらしい。稽古をしながら、残り部分の音楽構成について、素材をいろいろ試しながら相談。

 

4月11日

 

井上ひさしさんが亡くなった。ネットのニュースを読み胸がつまる。親しいというほどのお付き合いはなかったが、劇場という「場」をともにする仲間として、「井上ひさしのあたらしい言葉」を聞けない悲しみと喪失感は深い。井上さんの言葉との格闘こそ劇作家の証。

 

4月10日

 

休日を前に、メイン、プレショー共に、ようやく全員が通し稽古が出来る状態まで到達。全員がというのは、長期間にわたる繰り返し上演に対応する、メイン四班プレ六班の複数体制のため。次の課題は、同パターンの繰り返しではなく、班ごとの個性を引き出すこと。

 

4月9日

 

稽古終了後、日本、中国のメディア取材。昆劇院メンバーに残ってもらい、取材用公開稽古を二十分ほど。その後のインタビューで、前回、南京での香港TVでも感じた、中国記者の質問内容が印象的。「取材」や「報道」という仕事の本質を外さない真摯さがいい。

 

4月8日

 

未来と過去とのバランスが次第に「過去」に傾くのは、年齢のせいに違いない。おかげでこれまで見えなかったものに出会える面白さもある。日々、にダイナミックな変貌を遂げているここ上海で、再開発地域や新築ビルの意匠から浮かび上がるこの都市の「過去」!

 

4月7日

 

稽古後、今回、演出事務をお願いしている高宮さんと外灘へ夜景見物。対岸の浦東の現代建築とバンド側の格調ある20~30年代建築がライトアップされて美しい。見上げると、植民地地代に列強が覇を競った巨大ビルの頂上すべてに誇らしげに翻る五星紅旗。

 

4月6日

 

上海での作業初日。これまで現場ディレクターにまかせていた、プレショー部分の稽古からはじめる。メインショーの昆劇院の俳優たちとは異なり、オーディション選抜のMCの若ものたちはどこかぎこちなく、その分初々しい。まずは、いつも通りのスクラップ&ビルド。

 

4月5日

 

昼前、上海虹口空港着。宿舎に入り、滞在一カ月分の荷物整理にひと汗。夕方から、万博会場へ。二週間ぶりの会場は、広大な敷地全体に、三週間後に迫った「祭り」直前の緊張と活気が溢れている。スタッフ会議前、展示準備が進む日本館内をゆっくりひと巡り。

 

4月4日

 

桜満開。にもかかわらず、肌寒い一日。花見強行、風邪招来とかね。当方、首をちぢめて、終日自宅作業。上海出発前、デスク周辺の落ち穂拾いあれこれ。残りを旅行鞄の底に忍ばせたが、おそらくそのまま、一カ月後持ち帰り。わかっちゃいるけど、ま、気休めに。

 

4月3日

 

新入生の入所式、授業ガイダンスなど、明後日から上海行きを前に、座・高円寺の劇場創造アカデミー関連、いろいろ。一、二期生あわせて受講生五十人、講師陣、劇場スタッフとの顔合わせはなかなか壮観。劇場でのアカデミーの存在感が一挙に高まった感じ。

 

4月2日

 

永井愛『かたりの椅子』を世田谷パブリックシアターで。新国立劇場の芸術監督解任騒動に、財団理事として巻き込まれた永井さんの総括風戯曲。からかわれている官僚たちよりも、自分をふくめて演劇人たちの怠慢を恥じる。せめてあと二、三作のつるべうちが。

 

4月1日

 

座・高円寺で新年度の全体会議のあと、上海の舞台で使う能楽映像撮影のため、門前仲町にあるスタジオへ。地下鉄の階段をのぼり、豊洲運河沿いに咲いたほぼ満開の桜に迎えられる。撮影は銕仙会浅井文義さんの協力を得てイメージ通り、上々の仕上がりに。