5月30日
アカデミーⅣ期生授業。
課題の個人製作作品の途中経過発表。
四人が発表し、全員で検討を加える。
ひとりで考え、ひとりでつくる。
俳優という創作者の原点がおぼろげに浮かび上がる。
5月29日
アカデミー講師をお願いしている木戸敏郎さんと面談。
木戸さんが国立劇場でお仕事をなさっていた当時に企画された、シュトクハウゼンへの委嘱曲の再演について。
雅楽をモチーフとする1970年代後半の雰囲気が濃厚なシアターピース。
スケール感と知的なユーモアの交錯する「いかにも」感に思わず顔がほころんだ。
80~90年代の、作曲家柴田南雄さん、合唱指揮者田中信昭さんとの協働を懐かしく思い出す。
5月28日
本が読みたい。
読みたい本に出会いたい。
しゃべり言葉は小休止。
あ、志ん生だけは別ね。
体を動かさず遠くに「旅」したい。
5月27日
長野県茅野市へ。
蓼品高原への最寄り駅。
さすがにひんやりと涼しい風がここちいい。
駅前にある茅野市民会館の市民組織「ステージづくり部 活動中」メンバーの集まり。
ホール活動への市民参画について、思いのたけを二時間。
5月26日
『リア』、千穐楽。
打ち上げの宴。
集まってくれた劇場スタッフの面々の顔を見ながら、「劇場レパートリー」という言葉の意味をしみじみとかみしめる。
いままでとは違ったなにか。
手応えはあった。
5月25日
午後からの仕事を終え、最終便で久留米から帰京。
機中、CDで志ん朝、志ん生、『井戸の茶碗』の聞きくらべ。
志ん生の「凄さ」、品のよさ。
おそらくそれは、噺への周到にして直感的な「演出力」に由来する。
落語そのものがたしかに存在した時代を生きた芸人の幸せ。
5月24日
終日、会議。
旅先なので雑事から解放されて時間的な余裕があるはずなのだが、かえって窮屈な感じがするのはなぜだろう。
若いころ得意だったただぼうっとした時間の過ごし方は、年齢と共に難しくなるのかも知れない。
「漫然とした好奇心」の劣化。
仕方なしとあきらめたくはない。
5月23日
旅先、久しぶりの八時間睡眠で英気を養う。
おかげで頭の中は大分すっきりしたが、本日、久留米は気温32度の真夏日。
午前中は冷房のきいたホテルの部屋でPC相手のデスクワーク。
昼過ぎ町に出て、自動販売機で購入した冷茶で水分補給しながら通い慣れた道を市役所まで。
会議前の昼食は、いつもの店でごぼう天饂飩。
5月22日
京都へ。
必要があって、銀閣寺、金閣寺の方丈、その他を見学。
思わぬ目福の機会を満喫する。
骨董の世界には「目滓に汚される」という言葉があるそうだから、もしかしたら国宝、重文の数々には大いに迷惑であったかも知れない。
夜、大好きな九州新幹線「さくら」で福岡県久留米へ移動。
5月21日
『リア』、中一日の休演をはさんで゛上演再開。
初日以来、日々、変化の手応えを感じる舞台。
単なる波動ではなく、らせん状の上昇線を確実に描いている。
終わって、コルテス稽古。
一対一で俳優と対峙する至福の「遊び」時間。
5月20日
コルテス『森の直前の夜』、稽古はじまる。
出演者の笛田宇一郎さんとたったふたり、差し向かいの稽古場。
先日始まった啓子との『しあわせ日和』(ベケット『ハッピーディ』より)とあわせて、今年の10月中野テルプシコールでの「鴎座」上演に向けての長い旅。
いま、そこに在る人間の言葉、そして体。
今回の上演のサブタイトルは「極私演劇宣言」。
5月19日
『リア』、満員の客席。
今日もスタッフ用キャットウォークから観劇。
芝居は生き物。
とどまることなく変化しつづける。
変化しつづけなければならない。
5月18日
さあ、片付けをはじめなければ。
劇場事務所のデスク周辺、自宅の書斎、そしてなによりも自分の頭の中。
一見、それほど乱雑になっているようも見えないがそこがくせもの。
明日からの行動の手がかりが、もうひとつすっきりと見えてこない。
うかうか二、三日放置しておくと、あとでとんでもないことに。
5月17日
『リア』、初日。
満員の客席に、スタッフ用キャットウォークからの観劇。
終演後の拍手の音色に、肩の力がすっと抜ける。
キャスト、スタッフへのなによりもの贈り物。
ぼく自身にも何人かからのありがたい激励の言葉。
5月16日
『リア』、舞台稽古。
いつの間にか小劇場でも商業演劇でも、舞台稽古を「ゲネプロ」「ゲネ」「GP」などと呼ぶようになった。
舞台用語でなぜここだけに、ドイツ語(それも怪しげな略語)が使われるようになったのか。
おそらくという理由の見当はついている。
けれどいまだになじめない。
5月15日
『リア』、劇場で俳優を入れての場当たりと通し稽古。
丁寧で穏やかな時間が淡々と過ぎていく。
芝居を始めた頃の興奮や高揚とはあきらかに違う初日二日前。
もちろん緊張はある。
独特の疲労感が体の芯に残っている。
5月14日
『リア』、照明合せ。
照明プランナー斎藤茂男さんの進行にあわせて、映像の飯名尚人さんと作業。
今回の狙いは、俳優の即興性に対応できる柔らかな映像。
途中、パフォーミングアーツと映像との関係についての会話が楽しかった。
飯名さん曰く、「映像がリアルを目指すようになった、落し穴はそこにある」。
5月13日
『リア』、劇場仕込み日。
稽古場の大道具を劇場に飾り直し、あわせて照明、音響器具を設置する。
終日、細部チェックを口実に劇場客席に。
俳優座舞台部をはじめ、プロフェッショナルなスタッフたちの仕事ぶりを見るのは大好きだ。
演出席はもっとも贅沢な観客席でもある。
5月12日
『リア』、稽古場最終稽古。
美佐子さんに話をして以来、三年目にようやく実現した企画だが、いかにも座・高円寺らしい作品が出来上がりつつあるのがうれしい。
劇場にはそれぞれ個性がある。
建物、機構、そして人、さらにレパートリー。
個性はさまざまな出会いを通して自然に出来上がり、誰にもコントロールはできない。
5月11日
桂枝雀『愛宕山』を聞く。
関西風の音曲付きの華やかな演出と技巧。
さらにこの人ならではの徹底的なナンセンスとシリアスな人物描写の絶妙なバランス。
見事のひと言。
資質、才能と努力の結晶の痛ましさ。
5月10日
『リア』稽古、最終段階。
仕上げというよりも、これまでの稽古の束縛からどのように離れられるか。
「即興」とか「自由」とか言葉にすれば簡単だが、本当の意味で劇場や舞台がそのような場所であることはめったにない。
理屈ではない。
二月のアカデミー修了上演のときにも書いたが、つまりは参画したひとりひとりが抱いている渇望の切実さなのだ。
5月9日
『リア』、衣装合せ、鬘、メーク合せ。
衣装の岸井克己さん、メークの清水悌さん、鬘の川口博史さんなど、旧知のベテランスタッフたちのきちんとした仕事ぶりが気持ちがいい。
舞台監督の北村雅則さんをふくめて、それぞれの仕事を支えているアシスタントたちも印象的。
演劇という複雑な共同作業の場で、言葉を使ってのコミュニケーションにはどうしても限界がある。
結局は阿吽の呼吸を支えてくれるお互いの仕事への評価と信頼感。
5月8日
『リア』稽古前にアカデミー授業。
演技を「学ぶ」のではなく「知る」ためには、まずなによりも演技そのものの体験が必要だ。
演技を通しての「自由」や「解放」、そして「他者理解」の体験が、ひとりひとりの個性ある演技への第一歩となる。
そんなことを考えていたら、夜、韓国大学のミュージカルコースのいささか首をひねる授業風景をTVで。
この国の国立芸術大学にも創設されるというパフォーミング学科でははたして?
5月7日
初日まで10日。
今回もまた、まったく未知の舞台づくりなのだな、とつくづく思う。
過去の経験は一切役には立たない。
当たり前の話なのかどうか、それはわからない。
あるいは、ぼくひとりの個人的なやり方のせいなのかも知れない。
5月6日
連休最後の一日。
朝、十時過ぎ家を出て、啓子とふたり遊び倒す。
新宿で百貨店巡り(シャーペンの直し、その他)、昼食のあと、新橋、ゆりかもめ経由で日の出埠頭、水上バスで隅田川をさかのぼり、浅草へ。
浅草寺詣で、 公開中の大絵馬、寺宝展、回向院庭園散策、大黒屋で早めの夕食。
締めは浅草演芸ホール。
5月5日
端午の節句。
戦争中、父母が東京中を探し回って求めてくれた鎧飾り。
ボール紙など粗末な材料と往時の職人の丁寧な細工。
稽古帰りの夜、柏餅と菖蒲湯。
人の思いの糸をたどる。
5月4日
自転車の季節。
劇場までの一走りは本当に気持ちがいい。
中学時代から乗りつづけているが、十年ほど前に電動アシスト付きに乗り換えて以来、意識して行儀のいい走行をこころがけている。
以前はスピード狂の暴走自転車。
イタリアに旅公演に行った時に、舞台監督の森下紀彦さんに呆れられたことがある。
5月3日
初日まで、二週間。
毎度のことだが、ここからは日々の時間が加速する。
クールダウンもままならず、四六時中、あたまのどこかに『リア』の舞台が浮かんでいる。
やれやれと思うが仕方がない。
初日、開幕を待つ客席でいきなり我に返るのもいつものこと。
5月2日
『リア』稽古。
保留になっていた最終シーンをあたる。
これまでの稽古中、心配になって構成台本の解釈を現場でつくり直した部分がいくつかある。
最終シーンを立ち上げてみて、台本作者(自分自身)をもっと尊重、信頼しなければと大いに反省。
自作台本を読み込む難しさ。
5月1日
先週から水曜日、木曜日は『リア』の稽古とアカデミー授業の並行作業。
渡部美佐子さんというベテラン俳優との稽古場と高校を卒業したばかりの初々しい演劇志望者も何人か混じるアカデミーの授業。
座・高円寺でのふたつの現場の内容は見かけほどにはかわらない。
演劇における「共同作業」の原則。
劇場という場所の普遍性。