孤独。すさまじいほどの孤独。人はそれに耐えなければならない。なぜならそれは、結局のところおのれ自身がまねき寄せたことなのだから。
人はそれぞれ、お互いに手のほどこしようのまったくない、絶対的な孤独を認め合うことで、ようやく「理解」し合うことができる。おのれの孤独を極限で知る者だけが、かろうじて、「他者」という孤絶のかたちを通して、もうひとりの、別な誰かとのあいだに、かすかなきづなを感じとることができる。
今回上演するベルナール・マリ=コルテスの初期二作品に共通する主題を、たとえばぼくはそんなふうに読んだ。理解できない(理解しない)という「理解」の方法、その時、「他者」に向けられたコルテスの仮借ない、同時に(恥じらいにさえ見紛うほどの)限りなくやさしげな眼差しの魅力は、はじめて出会った『ロベルト・ズッコ』以来、ぼくをとらえて離さない。ぼくはそれにつよく共感し、同意する。
それにしても、と、思う。人間の孤独の要因を、安易な外部(たとえば、社会とか政治とか歴史とか)に仮託することなく、ひたすらおのれの渇望のなかにのみ求め、おのれ自身で背負い込むと見定めたコルテスが、なぜ、演劇(とりわけ、そのテキストを書く)という方法に固執したのだろうか。
コルテスに限らない。サミュエル・ベケットもまた、そのようにして、終生、演劇のテキストを書きつづけたひとりだったし、ハイナー・ミュラー『ハムレット・マシーン』の「開かれた不可能性」も、おそらく、その脈絡で読み解くことが可能だろう。
理由をはっきり示すことはできない。しかし、少なくとも、そのあたりにこそ、発生以来、演劇という行為に人が仮託しようとしてきたものの、もっとも本質的な「なにか」があると予感することはできる。
theater iwatoでの連続公演の二年目を迎えるにあたって、この二作品を上演するぼくたちの意図も、おそらくその「なにか」にある。その「なにか」への確信から、演劇の根拠、演劇をつくる、演劇をみるという行為の意味について、ポスト・モダンの手垢のついたメタ・シアターとは別のかたちで(あくまでも、俳優の身体的な「知」と「表現」だけを頼りに)、あらためて問い返しておきたいのだ。
三十年という歳月をともに過ごし、もっとも近しい演劇的同伴者としていまもある斎藤晴彦と一対一で向き合う『森の直前の夜』は、文字通り、それぞれが紡いできたこれまでの演劇的経験の集大成となるはずだし、コルテスの膨大なテキストを提示するために『西埠頭』でこころみるぼくにとっては未知の方法論は、これまでの自分自身の演劇的軌跡についての、完全ではないまでも、なにか根源的な自己批判を確実にふくんでいる。
願わくば、両側に、ぼくたちの過去と未来への深淵を感じる細いロープの上での緊張感が、コルテス、そして、翻訳者である僚友佐伯隆幸のエスプリを台無しにしてしまわないことを。現実への直視は、いつだって、なにがしかの「笑い」をともなっていなければならないはずなのだから。