2013年7月

7月31日

 

 

夏休み前の追い込み(追い込まれ)日程。

 

一日、五つ六つの異なる場面が次々に目の前に現れて、まったく次元の異なる問いを問いかけてくる。

 

異なる場面には異なる息づかい。

 

そして異なる思考回路。

 

しかもなお、「自分らしさ」という一貫性も。

 

 

7月30日

 

『ふたごの星』、キャスト、スタッフ顔合わせ。

 

現在、四国で活動中のアカデミーⅠ期生山本称子も、本日から参加。

 

三年目の今年、あたらしい俳優二人の参加を得て、劇場レパートリーとしてもう一歩先へ。

 

ビンを使った「ごっこ遊び」の空間を、物語る演劇のあたらしい場所として息づかせるためには‥‥

 

もっと自由に、もっと丁寧に。

 

 

7月29日

 

空き時間に新宿に出て映画『終戦のエンペラー』を見る。

 

日本人プロデューサーがニュージーランドで製作したハリウッド映画。

 

マッカーサー役のトミー・リー・ジョーンズ目当ての鑑賞だったが、映画の出来としてはうーん×3。

 

東条英樹、火野正平というキャスティングに拍手。

 

月曜午後、大型スクリーンの館内はほぼ満席。

 

 

7月28日

 

今日から二日間、参宮橋の国立オリンピック記念青少年総合センター通い。

 

同センターで催されている『子どもと舞台芸術 出会いのフォーラム2013』のプログラム(シンポジウム「アンダー3のための舞台芸術と、その可能性を探る」と基調講演)に参加。

 

東京オリンピックの選手村の跡地を利用してつくられたこの施設を訪れる度に感じる、なんともぬぐいがたい「お役所」感は相変わらず。

 

周囲のゆたかな自然とホテルを含めて充実した施設内容がほんとうにもったいない。

 

施設内の一等地にずらりと並ぶ(?)豪華な役員室の光景が目に浮かぶ。

 

 

 

7月27日

 

福島第一原発の現状が気になって仕方がない。

 

ネットに流布しているさまざまな情報は情報として、もっと漠然とした嫌な予感のようなものが日に日にたかまる。

 

2011年の事故当時、報道や繰り返される記者会見の内容とは別に、「起こっているに違いない重大事態」をなかば確信していた。

 

知らされることのなりゆき総体と、知らされ方そのものの不自然さに本能的なセンサーが反応する。

 

確信は、現在、ほとんどが真実であった‥‥ということは‥‥

 

 

 

7月26日

 

朝から紀尾井町で打ち合わせ。

 

四谷駅からホテルオータニの敷地内を通り抜ける風雅な散歩道を赤坂見附まで。

 

赤坂プリンス高層棟が消えて、三宅坂登り口の風景が一変している。

 

工事現場のフェンスに獰猛な蔓草の跋扈。

 

昨今のご時世になりやら暗示的な。

 

 

7月25日

 

秋の「鴎座」上演の制作事務。

 

今回は個人劇団らしく制作実務も自分で責任を負うことにした。

 

高校時代、生まれてはじめての入場料をもらう自主公演以来のこと。

 

当時はまず税務署におもむいて、チケットに「入場税」用のハンコを押し作業からはじめた。

 

会場は高円寺駅舎にあった旧々高円寺会館。

 

 

7月24日

 

座・高円寺の運営評価委員会。

 

平成24年度の劇場事業の概要について報告する。

 

公共がおこなう文化的な活動についての評価はどのようにおこなわれればいいのか。

 

座・高円寺の準備段階で評価体制の確立を進言した身としては、毎回、この委員会の動向はとても気になる。

 

通りいっぺんの審議会にしないために、今年は報告用パワーポイントを活動の記録画像などを多く取り込んでつくり込んでみた。

 

 

 

7月23日

 

俳優自身の発想を誘発するための演出プラン。

 

対話型の稽古場を実現するためには、十全な準備とともに、演出側にも即興力が求められる。

 

空間のイメージについてはそれなりの感触があるが、時間のイメージについてはどうだろう。

 

その昔、千田是也さんからいただいた「マコトは物語が書けない」という評言が身にしみる。

 

もっと素朴に、もっと単純に。

 

 

 

7月22日

 

『ふたごの星』、あたらしい出演者とともに、立ち稽古一日目。

 

いまたしかに次の(あるいは、次の次の)世代に伝えておきたいことがある。

 

宮澤賢治のふたごの星を借りて、自分たち自身のふたごの星を描きたい。

 

それはまた、半世紀前の自分にとっての芝居づくりの原点に戻ることでもある。

 

十代の自分が精一杯背伸びしてとらえようとしていた、「世界」の不可思議さ。

 

 

 

7月21日

 

『ピン・ポン』上演@いわきアリオス。

 

11時、15時との二回とも、客席に子ども、大人の笑い声のたえない幸福な上演を終える。

 

ここいわきで、上演回数も30回を超えた。

 

世田谷パブリックシアター以来試みてきた子どもたちとともにある舞台づくりについて、ようやく確信のもてるかたちが生まれたのではないかと思う。

 

もちろん、その分、見えてきた課題も多々あるのだが。

 

 

 

7月20日

 

いわきへ。

 

アリオス子ども劇場での『ピン・ポン』上演。

 

アリオス支配人の大石さんは、世田谷パブリックシアター以来、もっとも信頼する制作者のひとり。

 

このホールの計画時から立ち上げまで一緒に仕事をした。

 

仕込み後の交流会で、ひさしぶりに話がはずむ。

 

 

7月19日

 

旅の道連れは、須藤久『任侠道』(二十一世紀書院)と加太こうじ『日本のヤクザ』(大和書房)。

 

先日、座・高円寺の古本市で手に入れた二冊。

 

購入したその日に、家のテレビで笠原和夫、山下耕作の『博奕打ち いのち札』(東映、71年)の放映に出会う。

 

いかなる偶然の罠。

 

はたまた、いかなる深層心理のうごめき。

 

 

7月18日

 

ちょっとスケジュールが混み合ってくると、関係のない思いつきが脈絡なく次々に浮かんでくる。

 

習い性となった「現実逃避」手段だ。

 

出張の飛行機の中で、昨日の資料整理の余韻から、演劇の「もう一本別の道」についての幻想。

 

いまさら「もう一本別の道」があるはずもないのだが、奇妙に具体的な妄想が芋づる式に連なりとめどない。

 

福岡空港到着の頃は「現実逃避」で疲労困憊、いやはや。

 

 

7月17日

 

段ボールに詰め込んであった過去資料の整理。

 

学芸大学当時のゼミ生で、現在は演劇研究者の梅山いつきさんが手伝いを買って出てくれた。

 

幼稚園時代からの雑多な紙資料を、カード記入しながら手際よく分類。

 

早稲田の演劇博物館での助手経験は伊達ではないと感心する。

 

とはいえ、ふたり無言で五時間の集中作業の結果、ようやく全体の一割程度まで。

 

 

7月16日

 

九月に上演する『ふたごの星』、稽古始まる。

 

慌ただしい、というよりは、いかにもレパートリーのある劇場らしい日々。

 

「劇場人」としてはきわめてまっとうな、かつ、この国の状況の中では、たぶん例外的に恵まれた環境。

 

『ふたごの星』には、今年からあたらしい出演者が参加する。

 

再演を重ねるレパートリーならではの「作品共有」の輪のひろがり。

 

 

7月15日

 

『ピン・ポン』、東京千穐楽。

 

五年間の上演で、はじめて子どもたちの参加場面が「荒れる」。

 

これまでは、自由意思を尊重しながら、自然に「物語」づくりへの参加が実現していたのだが。

 

出演者の忍耐強い対応で、上演はかろうじて成立したが、演出者であるぼくの勉強不足は明らか。

 

言い訳や迂回なしに、真正面から大きな宿題をきちんと片づけよう。

 

 

7月14日

 

昨日から三日間、秋に「鴎座」で上演する『森の直前の夜』のプレ稽古。

 

出演する笛田宇一郎さんとふたりだけの稽古。

 

上演時間二時間弱の饒舌なモノローグ。

 

以前、黒テントで上演した時に、せりふおぼえには定評のある斎藤晴彦さんが、途中で音をあげていた。

 

笛田 さんは淡々と全体の六十パーセントほどまで。

 

 

7月13日

 

『ピン・ポン』初日。

 

開幕前、「ピンピン、ポンポン」と劇中歌を口ずさみながら場内に入ってきた小さなお客さんに驚く。

 

劇中では二度しか歌っていない歌だし、ことさらの歌唱指導もしていない。

 

それなのに耳でおぼえて、一年間忘れずに、また見に来てくれた。

 

期待を裏切らない舞台づくりをしなければ。

 

 

7月12日

 

『ピン・ポン』、舞台稽古。

 

どのよう「な」作品をつくりたいのか、ということと、どのよう「に」作品をつくりたいのかということとは、当然、不可分。

 

そのような意味で『ピン・ポン』は、四年目の上演で、作品の「共有」という求めていたあたらしい概念をようやく実現できたという達成感がある。

 

つくり手側での「共有」、受け手との「共有」。

 

明日は初日だ。

 

 

7月11日

 

定期検診日。

 

発病以来、足かけ四年。

 

三カ月に一度の血液検査、その他。

 

数値はどれも問題ないが、血圧コントロールの薬は、一日、八錠飲みつづけている。

 

顕著な副作用はいまのところない(と、思いたい)が、大量の化学物質の採取は体に影響を受与えていないはずはない。

 

 

 

7月10日

 

『ピン・ポン』、劇場での通し稽古を二回。

 

舞台で照明、音響つきの稽古を四日間できるのは、ほんとうにありがたい。

 

切符の売れ行きもまずまずで、座席増加をどうするかという制作からのうれしい相談。

 

今回の上演は『ピン・ポン』というprogramにとって、 ひとつの大きな山場であるのかも知れない。

 

作品づくりにかかわっている者たちすべての思いが、客席の子どもたちにはどのように伝わるだろうか┄┄。

 

 

 

7月9日

 

『ピン・ポン』、舞台稽古。

 

四年前の初演時から、毎年、つくりなおしを重ねてようやく完成形が見えてきた。

 

今回は美術と共同演出をかねるtupera tuperakの亀山さんが、すべての稽古場に立ち会ってたくさんのアイディアを提供してくれた。

 

おかげで前から気になっていたブラックライトを使うシーンも、ようやく見せ方と内容のバランスがとれた。

 

映像の吉本さん、飯名さんもそうだが、一世代、二世代違う若い才能との共同作業はほんとうに楽しい。

 

 

7月8日

 

朝、歯医者。

 

億劫になりがちな歯医者通いに、自宅から歩いて二分足らずという近さはありがたい。

 

荻窪で買い物のあと劇場へ。

 

13日からの『ピン・ポン』の仕込みをスタッフに託し、ひとり事務所にこもって原稿書き。

 

締め切り通りに予定の二本を仕上げる。

 

 

7月7日

 

七夕。

 

午後、『ピン・ポン』稽古前に国立能楽堂で櫻間金記『春栄』。

 

どこまでも無理な力をそぎ落とした自然体でありながら、端正な緊張感のとぎれることのない金記さんにふたたび出会う。

 

とりわけ終盤の「男舞」の見事さにはしばし時を忘れた。

 

子方など登場人物の多い現在能だが、ひさしぶりに舞台上全員の(演劇的な、音楽的な、そしてなによりも能的な)アンサンブルが感じられたのも気持ちがいい。

 

 

7月6日

 

映画の仕事で来日していた、北京ワークショップ広報担当の張さんが劇場訪問。

 

記録映像や写真をおさめたハードディスクを持ってきてくれた。

 

interpreterの延枝さんにも同席してもらってワークショップの反響、その他いろいろ。

 

張さんのような、独立系の若い制作者や演出家との出会いが、今回のなによりもの収穫。

 

これを機会に、日本のあたらしい世代の演劇人との「橋」役をつとめたいのだが、さて。

 

 

 

7月5日

 

午前中、国際交流基金へ。

 

六月の北京ワークショップの報告と年末の南京企画について。

 

八十年代からの東南アジアとの交流の延長線上に、ようやく中国の現代演劇の姿が見えてきた。

 

年齢的にぎりぎり間に合ったかな、といううれしい感触がある。

 

それだけに、なんとかここ数年の持続を確保したい。

 

 

7月4日

 

アカデミーⅣ期生、演出ゼミ発表会。

 

演出コースの四人が、それぞれ五分間強のピースを発表。

 

最近、こうしたワークインプログレスの趣のあるパフォーマンス共有の機会、方法について、ほのかな可能性を感じ始めている。

 

「作品」という呪縛をはなれて、作り手、受け手の区別や境界を取り払う。

 

今年の夏休みの宿題が決まった。

 

 

7月3日

 

朝のバス停。

 

かたわらの立ち木の木肌に惹かれて思わず手をのばす。

 

青梅街道沿いの銀杏並木の一本。

 

指先で精妙な模様をゆっくりとたどってみる。

 

それほど年を経た木ではないと思うが、近寄り見上げるとその風格は格別。

 

 

7月2日

 

『ピン・ポン』稽古。

 

劇場レパートリーとなって三年目。

 

再演ならではの手応えいろいろ。

 

よりシンプルに、より明快に。

 

稽古場で、主題歌のあたらしい歌詞を即興でつくる。

 

 

7月1日

 

今年もはや半年が過ぎた。

 

「あっという間」というひと言で片づけてしまうには、いろいろ賑やかな六カ月だった。

 

いくつかのずいぶんうれしい「実り」にも恵まれた。

 

同時に周囲の趨勢の薄気味の悪さもぬぐえない。

 

思ってもみなかった時、思ってもみなかった場所の前に間違いなく追いやられている不安と焦燥。