2011年1月

1月31日

 

寒い日。

 

冷気に身をひきしめるというにはいささかこころもとない歩みだが、朝、日差しに向かって(主観的には)ずんずん歩いていると、冬日の爽快さというのも確かにある。

 

むやみに春を待つ前に、いましばし味わうべき冬を五感で。

 

冬の食べ物、冬の挨拶、冬の木々や道端の草……

 

餌の少ない季節、庭の鉢に盛ったパン屑に群がる小鳥の声が賑やか。

 

 

1月30日

 

達成、あるいは中断ではなく、ただ「現在」の持続だけを思っている。

 

先週の書棚整理のおかげでで頭の中にもいささかの隙間が出来たらしく、なにやら風通しがよくなった。

 

書棚にしろ脳内倉庫にしろ、隙間をせっせと埋るのはやめにして、ひとつ拾ったらひとつ捨てる(いや、つもりとしてはひとつ半くらい捨てる)こころがけでいこう。

 

すっきりと、成長はおしまい。

 

もう充分と開き直っているのではなく、いま居るこの場所はこの場所で、それなりの面白みも意味も充分にあるのだから。

 

 

1月29日

 

午後から、座・高円寺。

 

ミーティング二件の合間に、松本修さんの稽古場(MODE、別役実『マッチ売りの少女』を覗く。

 

稽古佳境。

 

演出席の松本さんに黙礼して、三十分ほど。

 

夜は、いのうえひでのり演出、おにぎり『斷食』(座・高円寺1)を観劇。

 

 

1月28日

 

定期検診後、いつもの通り秋葉原散策。

 

旧秋葉原デパートの新装(おそらくJR系のナンチャラカンチャラというショッピングセンターに変身)も済んだはずなのに、なんとも垢抜けないゴチャゴチャ感は相変わらず。

 

タミール語(たぶん)の呼び込み、日本人店員のカタコト北京語とネイティブ広東語の値段交渉、などなど。

 

定番コースを一回り後、100円ショップで隙間の増えた本棚用のブックエンドを購入して帰宅。

 

座・高円寺ドキュメンタリー・フェスティバル、コンペティション部門の候補作を見始める。

 

 

1月27日

 

午前中、文化庁。

 

助成金申請の書式の確認。

 

座・高円寺に戻り、アカデミーⅡ期生の年度末発表の中間指導。

 

終わって、佐伯隆幸、梅山いつき、その他複数名と、それぞれ別々ミーティング。

 

夏目漱石『門』、iPhone画面で読了。

 

 

1月26日

 

午前中、交流基金。

 

今年八月のアジア劇作家会議打合せ。

 

座・高円寺に戻り、アカデミー修了上演稽古。

 

終わって、木野花さん、生田萬さんと、アカデミーのカリキュラムディレクター会議。

 

真面目な顔をして、演劇話いろいろ。

 

 

1月25日

 

外出時の電車読書、最近もっぱらiPhone経由の「青空文庫」で。

 

表紙のデザイン、フォント、頁の版組と、丁寧な工夫とこころ配りが感じいい。

 

すでに何冊か試してみたが、どういうわけか、iPhoneには夏目漱石がよく似合う。

 

中央線の車中、ドアに寄り掛かりながら片手で読む「こころ」。

 

巧みに編まれたひと言、ひと言がもぎたての果実のようにみずみずしく。

 

 

1月24日

 

近頃の羊羹がどうも気に入らないのですね。

 

そう、書道の墨くらいの大きさにカットされて、一切れずつ密封、その上ご丁寧に小函にまで入れてあるやつ。

 

食べてみればたしかに羊羹には違いないんですけど、何か違う。

 

羊羹の味わいの肝腎なところがすっぽり抜け落ちている。

 

あの羊羹、お客さんに出すときは小函ごとですか?……まさか!……でも……

 

 

1月23日

 

書籍整理。

 

全体の三分の二ほどを、座・高円寺アーカイブ寄贈と「鴎座」共有本として、段ボール箱三十箱に種分け。

 

その他、オペラスコアと音楽本をテノール修行中の知人の子息へ。

 

六時間ほどで、ゆったりとスペースのあるいい感じの本棚に。

 

手伝ってくれた、鴎座メンバー(個人劇団なのに?)の若者三人に感謝。

 

 

1月22日

 

終日、自宅。

 

机周囲と頭の中の整理、いろいろ。

 

どちらも大混乱という状態ではないのだが、完全にスッキリというわけでもない。

 

うーん。

 

あしたは助っ人を頼んで、本棚整理大作戦。

 

 

1月21日

 

「パブリックシアター(公共劇場)」という言い方の功罪。

 

劇場、あるいは演劇の公共性への着目を誘導した「功」。

 

これまでの公共ホール同様、「公共」を「官制」という意味に閉塞させた「罪」。

 

同じような意味で、劇場概念構築の必要性と「法制」への隠蔽にたいする懸念。

 

必要なのは劇場「法」ではなく、いましばし、劇場「運動」なのでは?

 

 

1月20日

 

座・高円寺。

 

スタッフ全体ミーティングのあと、デスクで書き物。

 

来年度の「あしたの劇場」追加レパートリー、『ふたごの星』。

 

以前、世田谷パブリックシアター「こどもの劇場」で上演した台本をもとにした新バージョン。

 

時を経て、原作(宮澤賢治)の読み方が大分変わっていることに気づく。

 

 

1月19日

 

過去を、とりわけ自分とは違う何者かの過去を執拗に物語ろうとし、耳を傾けようとするのは何故だろう。

 

それともそれは、結局のところ、自分自身の過去を物語っているのか。

 

あるいは、物語られる自分自身の過去に耳を傾けているのだろうか。

 

劇場とは、自分とは違う(過去の)誰かと出会う場所なのか。

 

それとも、自分の知らない(未来の)自分自身と出会う場所なのか。

 

 

1月18日

 

稽古二日目。

 

うーん、どうも肩に力が入っている。

 

とういか、演出家とアカデミー講師というふたつの役割の整理にとまどっている。

 

修了上演には、講師ではなく演出家としてのかかわりと決めてはいるのだが。

 

演出家であるためには、とにかくもっと楽しまないと。

 

 

1月17日

 

劇場創造アカデミー修了上演、稽古初日。

 

賛助出演のさとうこうじさんはじめ、協力スタッフ、アカデミー一期生一期生全員が顔を揃える。

 

とにかく始まった。

 

待ち望んでいた創造の日々へ。

 

まず、演出家「イクタ ト サトウ」を実態として存在させるためには?

 

 

1月16日

 

携帯電話をiPhona4に変更。

 

予定表その他の整理が、PCと連動して何となく楽しい。

 

とは言っても、手帳もこれまでこれまで通りで、ほんとうはそれほど必要な機能というわけでもない。

 

ま、当分の間は高価な遊び道具だな、やっぱり。

 

softbank店員(女性)の立て板に水の説明とてきぱきとした作業でも、なんやかんやで一時間半の買い物時間。

 

 

1月15日

 

目白の学習院大学で、盟友、佐伯隆幸の最終講義を聴く。

 

各世代、三百人ほどがつめかけた大教室で、「演劇人佐伯隆幸とは誰なのか」と題された、真情あふれる九十分。

 

その後の懇親会に出席したあと、座・高円寺へ。

 

八戸の豊島重之さん率いるモレキュラーシアター『のりしろnori-shiro-』。

 

詩人の吉益剛造さん、フランス文学の鵜飼哲さん、人類学の前嵩西一馬さん、豊島重之さんによるアフタートーク『ハエのための演劇』が、嬉しい聞き応え。

 

 

1月14日

 

座・高円寺でおこなわれた、TAGTAS企画の円卓会議に発言者として出席。

 

「虐殺と演劇」という総タイトルの意味をきちんと掌握出来ぬままに、中途半端な発言しか出来ず、反省しきり。

 

演劇運動の虚構性は、言説の強度とともに、こうした場でのパフォーマーとしての振る舞いによって保障される。

 

自分の言語が演じるに足る強度を失い、単なる説得、あるいは主張の具になっている。

 

17日にはじまる稽古場に向けて、気を引き締めなければ。

 

 

1月13日

 

朝の定例ミーティングのあと、平成23年度座・高円寺事業にかかわる書類作成二通。

 

完全な事務書類というよりはどちらも企画書に近い説明用文書のせいか、文章表現に気を使う。

 

通り一遍の美辞麗句を並べていると、いつの間にか企画そのもののエネルギーが失われてしまう。

 

途中、アカデミーのスタッフミーティングをはさんで、夕方まで。

 

無事、予定分を片づけて、早稲田の演劇博物館の別件打合せへ。

 

 

1月12日

 

劇場創造アカデミー修了上演の制作スタッフ打合せ。

 

「劇場環境コース」で二年間学んだ受講生と劇場側スタッフとの顔合わせをかねる。

 

明日の舞台・演出、学芸スタッフミーティングと併せて、いよいよ始まるぞ、と、少しばかり肩に力。

 

何が始まるのか?

 

ぼく自身もまだ全貌をつかんではいない「新しいこと」……の、はず。

 

 

1月11日

 

さまざまな家庭の壁際にしつらえられた、以前には考えられなかったような大きなスペース。

 

プラズマ、あるいは液晶のTVモニター画面。

 

コントラストを際立たせた鮮やかな色彩。

 

周囲を見回すと、その色彩は他にはどこにも存在しない特殊なものであることがわかる。

 

「うわっ、きれい!」に奪われ、歪められていく色彩感覚の行方。

 

 

1月10日

 

座・高円寺ダンスアワード。

 

毎年、富山でおこなわれている大学生を対象にした「少人数による創作ダンスコンクール」、アーティスティックムーブメント・イン・トヤマの入賞者の中から六組をピックアップして、ブラシュアップ上演をおこなうこころみの第一回。

 

「踊る」ことと「つくる」ことのバランスに純粋に取り組んだ若々しい表現がさわやか。

 

点在する個性を的確にとらえ、育てていく環境をどのように実現していけばいいのか。

 

「人材育成」とかいう白々しい言葉からは遠く離れて。

 

 

1月9日

 

月並みだが、新年もあっと言う間の一週間。

 

「過ぎていく時」というよりは、「取りこぼしていく時」という感覚。

 

足元を見ると、気づかぬうちにたまった時が、不思議な色の澱みをつくっている。

 

人はみな、おのれの取りこぼした時の澱みに、静かに沈んでいくものなのかも知れない。

 

やがて主を失った澱みは、たがいに浸食し合い、いつか誰も知らぬ極北の海となる。

 

 

1月8日

 

自分勝手に、鴎座第三期活動準備会と名づけている定例ミーティング。

 

演劇、哲学、文学、建築などを学んでいる二十代の仲間との気儘なお喋り会。

 

半年ほどつづけてきて、そろそろ「かたち」を考え出してもいい頃だが。

 

断片的アイディアではなく、思想的根拠をいま少し。

 

思想的! 根拠! ははははは。

 

 

1月7日

 

座・高円寺。

 

小曽根真ソロライブ。

 

今年二年目の初春企画。

 

肩の凝らない和やかな雰囲気。

 

レンタルした最高級ヤマハ、弦の響きがさすが。

 

 

1月6日

 

自分のidentityは、とりあえず空間との関わりに在る、と、思う。

 

生まれた場所、育った場所、暮らす場所、死ぬ場所。

 

そして、他者との関わり。

 

アジアへの戦争加害者である日本人である自分。

 

ぼくにとって、すべてはその場所から。

 

 

1月5日

 

山籠もり、最終日。

 

ゴミ捨て以外は外出せず、『戦争戯曲集』の台本読み。

 

並行して川田順造『口頭伝承論』(河出書房新社 1992年)。

 

こちらもノートを取りながらの学習読書。

 

西アフリカ、モシ族のフィールドワークに基づく興味津々の音声コミュニケーション論。

 

 

1月4日

 

自分にとって、今年は、あらためてさまざまな「はじまり」の年になるような気がする。

 

というか、是非ともそのような一年を過ごしたい、と思う。

 

座・高円寺と鴎座。

 

ある意味で対局にあるふたつの拠点からの第一歩。

 

「股裂き」を恐れず、大胆に。

 

 

1月3日

 

エドワード・ボンド『戦争戯曲集』、台本読み。

 

17日の稽古インまでに、これから何回、読み返せるか。

 

最初の目標は、人間をつかまえること。

 

リアルな人間だけが存在する舞台。

 

辛抱強く、繰り返し繰り返しテキストと向き合う中で。

 

 

1月2日

 

午後、崖下の駅までの山道を、枯れ葉を踏んで往復二時間ほど散策。

 

途中、冬の淡い陽光と木立が描き出す影の表情を楽しむ。

 

苔の生えた岩肌、コンクリートのまだらな壁面、枯れ草に覆われた崖など、背景の変化も面白い。

 

影……

 

振り返るとそこに在る何か。

 

 

1月1日

 

気温はそんなに高くはないものの、風がなく、体感温度のおだやかな好日。

 

初日の出、屠蘇、雑煮、お節、初詣、と、啓子とふたり、いつもの元旦フルコースをとどこおりなく。

 

毎年、通っている近所の神社から足をのばし、山間の抜け道にある量販店でiPhone4の「視察」。

 

毎度のことだが、携帯電話の料金設定は、何度説明を聞いてもよくわからない。

 

肝心の本体は、よーするに、決して安くはない値段との折り合いをどの辺りで納得するか……