12月31日
大晦日。 穏やかな日和。 人並みに恵まれた身辺をつくづくと感じるにつけ、遠い異国や、この国のあちらこちらで切迫した日々を過ごす人びとへの、「恥ずかしさ」にも似た言いようのない感情を押さえることが出来ない。 「虚栄」や「偽善」と誹らば誹れ。 この「うずき」や「もとかしさ」を、とりあえずの存在証明として……
12月30日
今年も残すところ、あと二日。 過ぎ去る年の回顧も、来るべき年への展望もあまり趣味ではないが、この国の2008年が、後世、いくばくかの振り返りの年になるのは間違いなさそう。 「55年体制」というか、ようする「戦後」終焉のための長いプロセスに、ようやくピリオドが打たれようとしている。 宗主国アメリカのひとりよがりグローバリズムにも、思いのほか早々に破綻が見えてきた。 さて、その先には……混沌と混乱は、むしろ望むところではあるのだが。
12月29日
イスラエル、地上軍を投入か。 もし実行されれば、まさしくアメリカ大統領交替の空白期を狙った悪辣なやり口。 もっとも、パレスチナについては、いまのところ「チェンジ」オバマにもさしたる期待は持てそうにない。 国連はいつもの通り、空爆(イスラエル)とロケット弾(ハマス)への非難決議。 圧倒的格差のある軍事について、イスラエル、ハマスを平等、同等に扱う国連の不平等。
12月28日
昨日から恒例の年末、年始の山籠もり。 午前中、今年から入れたストーブ用の薪づくり。 生まれてはじめて手にする手斧を危なっかしくふるい、ひと汗流す。 夜、啓子とふたり、家の中で揺れる炎をぼんやりと眺めて過ごす。 これまでにない、あたらしい時間感覚。
12月27日
山下信庸『アジア的文化の源流を探る-日本の反省-』(1994年鹿島出版会)。 戦中は内閣興亜院、大東亜省、戦後は国会図書館に勤務した著者による、昭和14年(1939年)から昭和18年(1943年)にかけての内部報告書と覚書の集成。 もともとは対中国向けに発案されたという「王道」思想の陥穽など、思いのほかの率直な記述がつづく。 現実には採用されなかった傍流資料が、かえって生々しく「満州国」建国前後の日本と中国との関係を描き出してくれる。 毛沢東の「新民主主義」論について、「支那革命の現段階のマルクス主義的把握としては殆ど創作的とも見るべき自由な解釈をとっている……」とする指摘が興味深い。
12月26日
年末、年始を前に、遅れていた原稿書きなど、終日、自宅作業。 月初めにあった大阪のOMS戯曲賞の選評を書きながら、いま、演劇することの意味について思いをめぐらす。 正直にいえば、いまもってはっきりとした答はない。 というよりも、迷いというか、疑いはますます深まるばかり。 であればなおのこと、来年こそは台本書きをと、唐突な結論にいたる。
12月25日
高円寺で、後期の授業に参加している院生と忘年会。 現役学生三名、現職教員二名、ワークショップ活動をしている俳優二名、聴講の大学教員一名という多彩な顔ぶれ。 不況に強い、というか経験的耐性のある演劇稼業の話題でしばし盛り上がる。 宴会コースを予約の居酒屋からぴったり二時間で追い出されたあと、別の通りにある小さな店へ移動。 70年代オールディズを聞かせる店で、すこぶる真面目な「演劇と教育」論。
12月24日
サイトリニューアルが中断したまま。 「日記」以外の更新になかなか手がつかない。 今回導入のあたらしいソフトは使い勝手は悪くないのだが、デザインがしっかり作りこまれているのがいかにも,窮屈。 再リニューアルも検討のうちだが、まだ結論が出ない。 いずれにしろ、来年秋の三回目の上演を控えて、「鴎座」もそろそろ動き出さないと。
12月23日
希望を語る」というのはどういうことか。 ひとつには歴史のとらえ方があるだろう。 残された言葉は膨大だが、それを支える人びとの日々のいとなみは沈黙の彼方にある。 人間と自然との接点をめぐる想像力を参照してみる。 希望としてのマルクスとかね。
12月22日
黒テント、納会。 神楽坂へは、ほぼ二ヶ月ぶり。 練馬から引っ越してきて四年目。 表通りに面した店の出入りが激しく(ことに飲食系)、来る度に町の様相が少しずつ変化している。 ガイド片手の見物人と、どういうわけかフランス人の姿が目につく、「伝統の町」の落ちつきのなさ。
12月21日
啓子と荻窪駅で待ち合わせ。 手すりにもたれて改札口を通る人びとをマンウオッチング。 人びとの顔つきの厳しさ、あるいは無表情さが気になり、穏やかな顔を見つけてカウントする。 15分間でやっと175人。 スイカをかざして通り抜ける自動改札のせわしさのせいもあるか。
12月20日
ハマスとイスラエルとの休戦、停止。 ガザ地区はふたたび孤立、戦禍の巷となるのか。 グローバル経済の破綻の中、求められているのはあたらしい世界の枠組みなどよりも、一夜の安眠を保障する小さな希望のビジョンのように思えて仕方ない。 沈黙の「うた」の連なりに耳をそばだてながら、なお一片の言葉の痕跡を探る。 性懲りもなく。
12月19日
夕方、四谷三丁目の国際交流基金。 座・高円寺のスタッフ酒井さんとともに、来年12月に予定している「アジア劇作家会議09」の企画説明。 終わって、新宿ジュンク堂。 久しぶりに、小一時間ほどかけて、ゆっくり店内をめぐる。 孫歌『竹内好という問い』、スラヴォイ・ジジュク『ラカンはこう読め』、トニ・ネグリ『芸術とマルチチュード』、その他いろいろ。
12月18日
大学講義日。 昼休み前に、同僚の中島さん、演劇評論家で編集者でもある高橋宏幸さんと、来春に出版予定の書籍についての打合せ。 予定しているタイトルは、『学校という劇場』。 院の講義で知り合った若手の研究者、現役教員、学生とともに、内輪の研究会に持ち寄られたさまざまな実践報告をもとに、演劇と教育についての横断的なアプローチをこころみる。 研究会は、来春、大学卒業(定年)後も、かたちを変えてなんとかつづけていきたい。
12月17日
今日も、座・高円寺関連のミーティング三件。 柿落との「絵本カーニバル」のディレクター、目黒実さんとの打合せなど。 目黒さんとは、スタッフとして参加するお嬢さんともども、劇場を見学しながらイメージを固める。 同時開催の大道芸とあわせて、生き生きとした「お祭り」空間をつくり出したい。 帰宅後、仮眠をとったあと、卒論四本の最終添削。
12月16日
座・高円寺関連のミーティング、三件。 高円寺、阿佐ヶ谷周辺の会場を自転車で巡りながら、開館後の劇場イメージについてさまざまに思い浮かべてみる。 建物が半ば完成して、どのイメージも、個別にはそれなりに具体的になってきたが、そこを貫く(あるいは、貫かせる)時間の連なりはまだまだ手探り状態。 なによりも、自分と劇場とのかかわり方への手だてをしっかりと見定めなければならない。 自分自身の芝居づくりへの渇望と、なんとか折り合いをつけながら。
12月15日
半日、大学で卒論指導。 ひとりあたり一時間の目安で六人と。 ようやく全員が、なんとか金曜の提出日までに脱稿出来そうな目安がついた。 仕上がりが近づくにつれて、あと少し時間的な余裕があれば、もうひと展開という「欲」を抱かせる内容が多い。 「とりかかりが遅いんだよ」という嘆息は、天に唾か?
12月14日
今日は冬の気温。 足元から昇ってくる冷気が、腰を浮かせ、前のめりになりがちなこころと体をリフレッシュしてくれる。 農耕であれ、狩猟であれ、「その場でじっと」は作業の基本動作のひとつ。 ただし、うっかり眠りこけたりすると、危険。 冬だからね。
12月13日
山東京伝全集、巻一。 黄表紙『笑語於臍茶(おかしばなしおへそのちゃ)』など、四編ほどを拾い読み。 『於臍茶』は、日頃粗末に扱われる下半身が上半身に反乱を起こし、臍の翁に説得されて丸く治まるという、「異類騒動もの」趣向の初期作品。 京伝は、およそ千八百種ほど出版されたと思われる黄表紙のうち、実に二百五十種ほどに関与(著作、画工、校閲、序など)したとされている。 高校生時代、日本名著全集で出会って以来の、「老後の楽しみ」にようやく手をつける。
12月12日
ここ数日、十二月とは思えない暖かな日がつづく。 ガラス窓から射し込む陽のぬくもりが、子ども時代の「ひなたぼっこ」を思い出させる。 近所の屋敷の塀の下に、友だちたちとずらりと並んで腰をおろして過ごした無為のひととき。 てんでに自分の正面を眺めながら、お喋りはあまり弾まなかったように思う。 あの時、幼い頭が思い描いていた世界こそ、「想像力」という名にもっともふさわしい「何か」であったような……
12月11日
卒論、追い込み。 ここへ来て急ピッチで進む学生諸君の作業に「指導」教員は青息吐息。 表現コミュニケーションという茫漠とした領域の教室ならではの、多彩な卒論テーマをひと通り押さえるだけでもひと仕事。 要するに、有無を言わさぬ「勉強」の季節。 帰宅後、シーズン終盤のNFLを、深夜、TV観戦。
12月10日
報道では派遣社員や契約など非正規社員の人員削減が連日の話題。 経済状況の悪化を背景に硬直した企業論理がまかり通る。 誰もが潜在的経営者(「起業」幻想やにわか投資家)という「生き方」を捨て、人びとの繋がりを保障するあたらしい思考様式が必要。 このような時にこそ、「緊急性」とか「現実性」とかの政治的な言語にとらわれない、柔軟かつひらけた可能性への展望を抱きたい。 問われているのは、「個人」の尊厳であり、自由そのものなのだから。
12月9日
夕方から雨。 座・高円寺でのミーティングのあと、最寄り駅から自宅までの暮れた道を、傘にあたる雫の音に耳をすましながら歩く。 次第にひろがってくる聴覚の世界。 ふだんは何気なく聞き逃している町の音ひとつひとつをたしかめているうちに、これまで体験したさまざまな音の記憶に思いがおよぶ。 インドネシアの古都をベチャ(人力タクシー)で走っていたとき、どこからともなく聞こえてきた夢のようなガムランの音色とか。
12月8日
鳥山にある渋沢栄一史料館へ。 渋沢財団の理事、元国際交流基金の小松諄悦さんを訪問。 タイとの演劇交流で野田秀樹『赤鬼』を一緒に仕掛けて以来、久しぶりにゆっくりと話す。 用件を終えたあと、月曜休館の館内に点灯。 小松さんの案内で、渋沢翁の生涯、業績についての展示を見学する。
12月7日
座・高円寺の建設工事が引き渡しを前に急ピッチで進んでいる。 建築家伊東豊雄にふさわしい、個性的で美しい建物が徐々に姿をあらわしてきた。 それだけに、実際に劇場の運営を預かる身とっては、なかなか手ごわい環境が待ち受けていそうな気がする。 この建物を「劇場」として読み、動かしていくためには、なまなかな経験やアイディアだけではどうにもならないだろう。 今夜もまた、すがすがしく強靱な「知」への渇望か。
12月6日
半月ほどの間に、今日で三回目。 議論に激してコントロールを見失い、瘋癲老人めいたアレレな言動に及ぶ。 蓄積疲労の故か、はたまた寄る年波か、あるいはその両方の相乗か。 いずれにしろ、ふるまいを内省する「知」の貧しさをいまさらのように恥じる。 加藤周一さんが亡くなった……瞑目。
12月5日
終日、自宅作業。 朝食後、小一時間、ピアソラの曲を聴いて、頭の中をもやもやと漂っている浮遊物を静かに沈殿させたあと、ダンボール箱の解体整理などの軽作業と、座・高円寺事業の企画書などのデスクワークを交互に。 午後、打合せのための来客、ひと組。 本日の成果。 からだを使う軽作業は順調、デスクワークはそれなり。
12月4日
嘘をつくためには、まず、嘘をつく当人がその嘘を信じる。 自分の信じていない嘘は、すぐに相手に見破られてしまう。 ちょっとした疑問が頭をよぎる。 もしかしたら、信じて発せられた言葉は大抵は嘘である、のではないかと。 該たらずといえども遠からず、と、苦笑。
12月3日
午前中、帰京。 明るい日差しの下、車窓から東海道の紅葉見物。 このところ、新幹線に乗るたびに、子どもの頃の鉄道好きがよみがえり、やたら車窓にへばりついている時間が長い。 余りの時間は、書評で気になっていた後藤和智『おまえが若者を語るな!』。 午後、高円寺の劇場準備室で取材二件。
12月2日
大阪で、OMS戯曲賞の選考会。 今年は、渡辺えり、生田萬、松田正隆、鈴江俊郎と審査員全員の顔が揃う。 午後1時から6時過ぎまで、五時間余、議論をつくす。 OMSらしい生きのいい作品二作が選べて、満足。 そのまま授賞式から飲み会へと、午前1時まで。
12月1日
酉の市も終わり、十二月。 座・高円寺準備室は年内に新劇場に引っ越しの予定。 卒業論文の提出日も迫っている。 劇場建築工事に直接かかわっているわけでも実際に論文を執筆する学生でもないけれど、やはりにわかに尻に火がついた感じ。 もっとも、尻の皮の厚さも、面の皮に負けず劣らずではあるのだが。