初演出を、さて、どこまでさかのぼろうか。はっきり憶えているのは、まだ小学生の時分、自宅の廊下で上演したバレエ作品のこと。片面三分内外しか収録されていない当時のSPレコードから三曲を選び、数日前に見てきたばかりの『白鳥の湖』をそっくり真似た三部構成の作品を自作自演した。廊下の障子を引き割り緞帳に見立て、広告紙を小さく切ったチケット持参の祖母や母たちが見物人だった。
つきあわされた弟たち二人は、ハチャトリアンの『剣の舞』を伴奏に、風呂敷のマントをひるがえし、裁縫用の物差しの剣を振り回して踊る兄貴の姿を、いったいどんな目で眺めていたのだろう。
もともと、ふだんの「ごっこ遊び」の時からして、ダメ出しの多いつきあいにくい兄貴だったと思う。居間の机をひっくり返した「海賊船」が、乗船時の挨拶の仕方が違うとか、帆をあげる動作が出鱈目だとか、細かなやり直しでとうとう半日出帆できなかったことがある。長じて芝居の世界に棲息するようになって、稽古場でしつこい小返しを繰り返すたびに、あの船出しそこなった「海賊船」と、わけもわからず見えない帆柱を何度ものぼらされた弟たちの情けなさそうな顔を思い出す。
プロとしての(というのもおこがましいが、まあ、当人がそのようにはっきりと自覚しての)デビュー作は、一九六六年に仲間たちと旗挙げしたアンダーグラウンド・シアター「自由劇場」の第四回公演(六七年)だった。出し物はユージン・オニールの『皇帝ジョーンズ』。叛乱にあい森の中に逃げ込んだ黒人の皇帝を主人公にした、表現主義の色あいの濃い、オニールの代表作のひとつだ。
執拗な太鼓の音に追われる皇帝が、幻覚におびえながらさまよう深い森の迷路を、舞台と客席をあわせてもわずか三十坪しかない地下の小劇場に再現するために、直径二間と一間の二つの盆を劇場の中央に据えて、持ち込んだ年代物のウインチで、幕開きから役者たちが交代でギリギリ回しつづけた(舞台装置、阿部信行)。見物はそれを四方から取り囲んで見る。芝居づくりと空間づくりとの密接な関係について、制約の多い小劇場でたくさんのことを楽しみながら学んだ。
作曲家の林光さんとの本格的な出会いもこの作品からだった。それまで何度か演出助手として面識のあった光さんに、劇中にいくつか挿入したソングの作曲をお願いした。稽古中にノートの端に書きつけた数行が、一週間もたたないうちにまぎれもない「うた」として立ち上がってくるという驚きにみちた幸福な体験は、それ以来、ぼくの芝居づくりの方向に大きな影響をあたえた。
光さんは劇中歌の作曲者としてばかりでなく、伴奏用の打楽器の指導者(楽器づくりから演奏まで)として、当時、NHK交響楽団のパーカッショニストだった一流の奏者を紹介したり、役者たちの歌の稽古のために足しげく地下劇場に通ったり、文字通りの「協働者」として、思ってもみなかった熱心さで芝居づくりに参加して下さった。その真摯な姿勢と気軽な身振りからも、ぼくはさまざまを学び、影響を受けた。
劇団員わずか十三人でスタートしたばかりの若い劇団では、メンバーは当然、ひとり何役も兼ねなければならない。処女演出『皇帝ジョーンズ』では、幕が開いてからは音響のオペレーターを担当した。劇中、場面の変わりごとに、主人公の皇帝が目の前の幻覚に向って拳銃を放つ。森の闇に低く聞こえてくる太鼓の音とともに、芝居の流れにきわめて重要な役割をはたすこの発射音には、現実感を出すために小道具の拳銃に仕込んだ本物の火薬を使うことにした。もちろん、万が一、火薬が不発の場合を考えて、テープに録音した効果音も用意してあった。
ある日、このきっかけを外した。舞台で演じられている芝居に熱中して、火薬の不発に気づかなかった。いや、正確に言うと、気づいてはいたのだが、その時、行わなければならない自分の役割をすっかり忘れていた。数秒の間のあと、舞台では主役を演じていた串田和美が、自分で「ぱーん」と大声を張り上げた。
「ちらっとオペレーター室を見たら、マコトはパイプ煙草をぷかぷかやりながら、楽しそうに舞台に見とれているんだもの。こりゃ駄目だと思って自分で声を出した。あの時はほんとうに恥ずかしかった」
あれから四十年たったいまでも、串田は、会うと時々、愚痴をこぼす。
三年後、「東京室内歌劇場」の定期公演で、バッハの『コーヒー・カンタータ』を演出させてもらった。これが、ぼくのオペラ演出のデビューになる。
『皇帝ジョーンズ』も『コーヒー・カンタータ』も、まだ二十代の、仕事をはじめたばかりのぽっと出の演出家にとっては、つくづく恵まれたスタートだったと、いまさらにして思う。自分のやりたいことをやりたいように思う存分やらせ、後押ししてくれた周囲の「大人」たちの顔が、感謝の気持ちとともに次々に思い浮かんでくる。
しかし、にもかかわらず、ぼくの「海賊船」はいまだ出帆の気配もない。何故だろう?