私の公共性

若葉町ウォーフ

 

昨年(2017年)6月、横浜の中区若葉町に、個人で営むアートセンターをオープンしました。アートセンターという言葉の意味は、ぼくたちの周囲ではかならずしも明確ではありません。というか、美術関係者を中心に、どちらかというと負の印象をもった言葉だったような気もします。2007年に開場した収蔵品をもたない国立新美術館が、ミュージアムではなくアートセンターという呼び名を採用したことから、アートセンターは一時期、「巨大な貸しギャラリー」といった揶揄的な表現と一緒に取り沙汰されることが多い言葉でした。
 美術ではなく劇場表現の分野で活動してきたぼくは、アートセンターについて、それとは違ったイメージをもっています。長く交流をつづけてきた東南アジアや中国での経験から、ぼくにとってのアートセンターは、まず何よりも、美術、音楽、舞台表現、それらに携わるさまざまな人びとが出会い、協働するための仕掛け、あるいはその仕掛けを支える組織や施設を意味する言葉でした。
演劇、舞踊の上演や、コンサートやギャラリーなど多目的な利用を考えた100㎡のブラックボックス(実際には白ペンキ塗りのホワイトボックスですが)、同じ広さのリハーサルスタジオ、最大20人が宿泊できるドミトリー形式の宿と、三つの施設を一体化した若葉町の施設には、アートセンターという呼び名がふさわしく、またわかりやすいのではないかと思っています。
賃借している建物は、地元の商店主や企業が音頭をとって立ちあげた金融機関(無尽会社)の本拠地として半世紀前に建設された、三階建ての小ぶりなビルです。カードローンの時代を迎えるまで、横浜下町一帯の商業の拠点として、近隣に暮らす人びとにとっては馴染みのある場所だったと聞いています。街の歴史をひっそりと語りかけてくるような昭和モダンの風情を色濃く残す外観をそのままに、春は花見客で賑わう大岡川と繁華街伊勢崎モールとを結ぶ四つ辻に、「ご町内のアートセンター」は誕生しました。名付けて「若葉町ウォーフ」。ウォーフ(wharf)は、英語で「波止場」や「埠頭」を意味する言葉です。

 

市民と地方行政との協働

 

はじまりは、「世田谷パブリックシアター」でした。1997年に開場した東京都世田谷区の公共施設に、基本構想から劇場建設までの十年間、劇場担当の専門委員という立場でかかわり、開館後の五年間は、劇場監督の名目で実際の運営にも携わりました。
再開発事業の全体にかかわる専門委員会の取りまとめ役は、2014年に亡くなった大村虔一さんでした。大村さんは、千里ニュータウン、東京オペラシティ、幕張ベイタウンなどの大規模なプロジェクトを手がけられた高名な都市計画家ですが、一方で、日本のプレーパークの生みの親としても知られる、地域と結びついた市民活動の実践者でもありました。後にキャロットタワーと名付けられる煉瓦色の高層オフィスビル、田園都市線三軒茶屋駅を起点とする地下通路と半地下広場、世田谷線の始発駅の駅前広場、三軒茶屋の中心部に三ヶ所のシンボル空間を整備して、街にあたらしい人の流れを呼び込む明快なグランドデザインは、地権者との交渉などに予想外の時間を費やした再開発事業を、最後まで支えた原動力でした。
住民の福祉利用を目的にする「公の施設」の枠からは大きく踏み出す公立劇場としての「世田谷パブリックシアター」構想も、大村さんのグランドデザインがあって、はじめてその位置づけを得たといっても過言ではありません。影響を受けたのは、大村さんならではの公共(public、common)のとらえ方でした。大規模な都市計画から、地域の人びとが公立公園内の一部を自主管理する遊び場(プレーパーク)の活動まで、大村さんは機会があるごとに、「市民の側から」と「地方行政との協働」というふたつのイシューの両立を、繰り返し語られていました。その公共観は、大村さんがプレーパークの活動をはじめられた70年代半ばという時代には、まだ一般的だったとはいえない、先進的な考え方だったと思います。
大村さんの公共観は、立ち上げ時の「世田谷パブリックシアター」の随所に反映されていました。劇場運営に携わる劇場制作、学芸、技術部門の専門スタッフが、自分の立場を「施設の管理者」と捉えるではなく、「劇場人としての市民」の側に置いて行政本体と協働する組織構想はそのひとつです。さらに、先進的な舞台作品の提供とともに、もう一方の主要な事業として、ワークショップや、戯曲、批評講座などのアウトリーチプログラムを重視して、そこに事業予算の三分の一を充当する事業運営も実行しました。

 

地域コミュニティへの役割

 

「世田谷パブリックシアター」開館から十二年後、2009年6月、東京都杉並区高円寺に、「座・高円寺(杉並区立杉並芸術会館)」がオープンしました。区立小学校へのワークショップ講師の派遣などを通して、以前から杉並区と関係があった日本劇作家協会が相談を受け、劇作家の別役実さんの推薦で、ぼくは開館の四年前から区のアドバイザーとして計画にかかわり、開館後は芸術監督(区非常勤職員)として、指定管理者「NPO法人劇場創造ネットワーク」とともに運営にあたっています。
杉並区の劇場づくりでは、「世田谷パブリックシアター」での経験を踏まえた上で、コミュニティシアターをキーワードに、中小規模の公共劇場のプロトタイプを意識した計画をまとめました。
高円寺は、毎年8月末に開催される「東京高円寺阿波おどり」で知られる活気のある町です。二日間の開催で、参加の踊り手が1万人、町に集まる観客は100万人をといわれる一大イベントは、六十一年前、わずか30人足らずの商店会青年部有志による発足以来、一貫して、地元商店会を中心にした民間の手によって担われてきました。
施設内に、ふたつの小劇場とともに専用練習場「阿波おどりホール」をもつ「座・高円寺」では、その関係もあって、開館前の早い段階から、商店会や町内会をはじめ、地元の方々と直接顔をあわせて言葉をかわす機会が度々ありました。地元コミュニティとのふれあいは、やがて、「座・高円寺連絡協議会」と名づけられた、この劇場独特の出入り自由なゆるやかな集まりに組織され、指定管理者と区が共同で事務局をつとめながら、現在も月一回の開催がつづけられています。
劇場が担う公共性を、具体的な地域コミュニティを中心に置いて組み立て直すという考え方には、専門劇場を、従来の「公の施設」の多目的利用の方へ押し戻す、本卦帰りのような印象があるかも知れません。けれども、「公の施設」の多目的が、幅広い借り手(=市民?)の求めに応じるための受け身なものであるのに対して、コミュニティシアターの多目的は、劇場が地域の一員として自らの公共的な役割を切り拓いていく積極的な意味をもつものです。
地域の子どもたちとともにある事業、劇場が生み出した舞台を使い捨てに終わらせずに再演を繰り返し、外に向かってもセールスしていくレパートリーシステム、劇場スタッフの専門性を活用した地域の催事への積極的な参画、研修事業「劇場創造アカデミー」の運営などを軸に、「座・高円寺」はコミュニティシアターとしての実践を重ねてきました。この蓄積を、当初の目論見だった中小規模の公共劇場のプロトタイプと結びつけていくためにも、そろそろ、「公の施設」の劇場利用ではなく、官民のわけ隔てなく、劇場という存在を法的に保証する、語のほんらいの意味での「劇場(設置)法」の議論が必要な時な時なのではないかと考えています。

 

波止場と杭

 

「若葉町ウォーフ」は、豪華客船が停泊する横浜港の大桟橋ではありません。横浜市を南北に横切って横浜港に注ぐ二級河川、大岡川のほとりで舟を待つ船着場です。巨大なタンカーから手漕ぎボートまで、船には(規模だけではなく、もっている機能や雰囲気までをふくめて)それぞれにふさわしい波止場があります。「座・高円寺」という公共劇場にかかわりながら、一方で、民間アートセンターを個人で立ちあげた理由もそこにあります。
数人だけの小さなこころみ(公共劇場での小さなこころみは、何故か、予算的にはかならずしもそうならない場合が多いのです)、長期間(たとえば三十年とか)にわたる継続的なこころみ、実現そのものも危うそうな冒険的なこころみ、構想から実行まで準備期間が短すぎる(あるいは長すぎる)こころみ、などなど、公共劇場では手をつけるのが難しいこころみはたくさんあります。同時に、これらのこころみは、どれもが創造者にとっては将来の作品づくりに直結する重要なプロセスのひとつです。
「若葉町ウォーフ」を劇場ではなくアートセンターと名付け、興行場とともに旅館業の認可もあわせもった施設として運営するのは、ここが創造者同士の直接的な出会いを通して、未知なるものづくりへの第一歩を踏み出すための場所となることを期待しているからです。
波止場に三本の杭を立てました。一本目は「share=分かち合う」、二本目は「networking=個と個を結ぶ」、三本目は「transboundary=越境」という杭です。杭はそこに小舟をつなぐよすがであるとともに、波止場を支え、継続させるための理念でもあります。あたらしい公共性への、三つの可能性の発信と言い換えてもいいかも知れません。
「若葉町ウォーフ」が借りているビルは、1966年に建設されました。同じ年、劇作家の斎藤憐、演出家で俳優の串田和美ら13人の仲間と語らって、東京西麻布にあった硝子屋さんのビルの地下室に、「アンダーグラウンドシアター自由劇場」と名付けた、30坪の小劇場をつくりました。ぼく、そしてぼくたちの劇場暮らしのはじまりです。公的助成など夢のまた夢だった時代に、二十代の若者たちの夢は、当時のお金で600万円という大金を返済期限などの条件一切なしに貸して下さった、ひとりの篤志家の助力によって実現しました。
あれから半世紀、ぼくは長いひと巡りを終えて、いまようやく、「わたくし」という名の公共性について、あらためて考え直さなければならない場所にたどり着いたような気がしています。