独断的演劇論ノート

見物が「見たい」芝居をつくるのではなく、「思ってもいなかった」芝居をつくりたい。不機嫌な見物席を恐れることなく。

 

 

滿ち足りた顔の見物たちが舞台に向かってひざまずく。劇場で出会うもっとも醜悪な光景。

 

 

多くの「演劇嫌い」は、たしかな目をもった「演劇愛好者」である。彼らを劇場に呼び戻すのは容易なことではない。

 

 

善良な芝居(劇場)好きの視線は未熟な才能を勇気づけ、経験ある才能を堕落させる。

 

 

どんなに貶されていても批評文が面白い舞台は、大抵、面白い。どんなに誉められていてもその批評文がつまらない舞台は、ほぼ確実につまらない。

 

 

優れた演出を感じさせてしまう舞台は必ずどこかに本質的な欠陥がある。演出家の「作品」? 糞喰らえ! 劇場でおこなわれる現実の舞台のいったいどこにそんなものが存在しているというのだろうか。

 

 

演出家は芝居を知らない。大抵の演出家は駆け出しの俳優と同じ程度にしか実際の舞台には立った経験がない。そしてそれこそが演劇における演出家の役割のほとんど唯一の根拠ではあるまいか。

 

 

自分が演出家でありたいためにだけ演劇をおこなっている演出家と付き合わされた稽古場は不幸だ。そこでの彼の言葉は、ただただ、彼自身の存在証明のためにだけ発せられている。

 

 

演出家がしばしばおちいる誤りは、自分の視線をあたかも観客のように平然と俳優の演技に向けてしまうことだ。演出家はいつも舞台の袖から覗き見るように俳優たちを眺めていなければならない。

 

 

演劇に必要な即興性にたいする力量は俳優だけに求められるのではない。演出家もまた即興力をおおいに求められる。注意深く準備され、なにもかも計算されつくした演出の味気なさ。

 

 

演出家の仕事は芝居を演出することではない。演出家は「稽古場」を演出する。

 

 

うまい役者? もちろんいる。大抵は観客に「うまい役者だな」と思わせてしまう程度のうまさではあるが。

 

 

せりふは「他人の言葉」である。結局のところ本当の意味はわからない。演出家も俳優も「他人の言葉」を代行するすることは出来ない。ましてや、所有や表現なんて。「他人の言葉」を「他人の言葉」として伝える。肝心なのはそれだ。

 

 

どんなに優れた台本にも人間そのものは描かれていない。台本に描かれているのは、彼(女)のふるまいに過ぎない。人間の創造、それこそが役者の仕事ではないか。いかに役を演ずるかではなく、創造した人間がいかに役に成るか。役者の仕事は単純ではない。

 

 

台本を読み込む前に、台本の言葉を一語一語、意味ではなく言葉として確実に憶える。憶えた言葉を一語一語確実に伝える。役者の仕事はそこからしかはじまらない。

 

 

演者の品性は彼の演技にあるのではない。演者の品性は、演技を見る観客を見返す彼の視線のありようによって定まる。

 

 

演技を見る。演技をしている人間の意識を見る。観客席からの視線はいつも二重である。この二重性に対処する方法論など存在しない。

 

 

「人間の肉体の明快な輪郭性は、不気味である」と、フランツ・カフカは書いた。
演技の真髄は、この「明快な輪郭性」をいかにぼやけさせるかというところにある。

 

 

面白い役者がそれぞれ違うように、面白い芝居もそれぞれ違う。お互いにちっとも似ていない。
芝居を「型にはめる」類のすべての議論や批評は、まず、この点で間違っている。

 

 

役者志望者のための自己採点票

 

1)恥ずかしがり屋である。(註1)
2)なんでもいい。いま、何かに腹を立てている。(註2)
3)どちらかといえば、本を読むのが好き。(註3)
4)二十本以上の生の舞台(芝居でも、舞踊でも、オペラでも)を見たことがある。(註4)

 

○、×で答えて、ひとつでも×があったら、さっさと役者をあきらめること。

 

(註1)「恥ずかしがり屋」と自己申告する恥ずかしさ、図々しさ。
(註2)すべての表現って、ようすに腹をたてることなんじゃないだろうか。
(註3)本を読むことに「あこがれ」を持っている。あるいは本を読むことが「恰好いい」と思っている。
(註4)二十本見ていれば、きっと「つまんねー」舞台にも出会っているはず。

 

 

たとえ的が外れていても褒められれば嬉しい。たとえ的を射ていても貶されれば頭にくる。二重の罠だ。
褒められたら聞き流し、貶されたら慎重に熟考するという対処法。

 

 

演出家による「演技指導」の多くは、その演出家自身の演技プランを示しているに過ぎない。彼は面白い役者だろうか?
ようするに、大抵の「演技指導」は相当にいかがわしい。

 

 

「面白い」、「つまらない」には執着がある。もちろん、「面白い」方がいいに決まっている。
ただし、「ひどくつまらない面白さ」もあれば「とても面白いつまらなさ」というのもある。

 

 

「正しい」ことは、大抵、つまらない。
「間違っている」ことは、大抵、面白い。
劇場というのはなんて愚かな場所なんだろう。

 

 

劇場の愚かさにふさわしい愚かさを、一体、いつになったら身につけられるのだろうか。