来し方 行く末 成れの果て

1.

 

太平洋戦争敗戦の二年前、一九四三年(昭和十八年)八月二十三日、東京(新宿区諏訪町)に生まれる。

 

疎開先の静岡県伊東の家で、空襲警報が鳴って、押し入れの中に隠れた記憶が鮮明に残っている。
襖の隙間から覗くと、明るい日差しの縁側に、ひとり碁盤に向かう祖父の姿が見えた。
やっとよちよち歩きが出来るか出来ないかの頃の話しで、もちろんまだ、尻にはしっかりオムツを当てていたはずだ。
風呂場にあったライオンの頭をかたどった陶器製のカランとか、近所に住んでいた炭焼きの「ぼうぼう爺」とか、その孫娘(ぼくより四、五歳は年長だったろうか)と鶏小屋にもぐり込んで、羽根と糞とにまみれて遊んだママゴトとか、伊東での記憶はいくつも思い出すことが出来る。
あとになって、どれもが事実であったことを母親に聞いて確かめた。
記憶といっても、ほんとうはその後かなりの歳になるまで、それらの情景がもとになった夢を繰り返し見たせいだろう。

 

夢と現実とを厳密には区別しない(出来ない)という性癖は、たぶん生まれながらのものかと思う。

 

2.

 

十九歳の時、『青い小劇場』(うーむ。凄い名前だな)という劇団を立ち上げた。当時通っていた俳優座養成所の仲間たち、ぼくの出身校都立駒場高校の遊び仲間、養成所に入ってすぐ友だちになった串田和美の成蹊高校時代の演劇仲間、と、総勢五十人ほどがわやわやと集まって、とにかく一本芝居をでっち上げた。
出し物はイオネスコの『無給の殺し屋』、串田の美術、ぼくの演出で、お茶の水にあった旧日仏会館ホールでの上演だった。
プロ志望者の集まりである養成所のメンバーはともかく、都立駒場高校からと成蹊高校からのメンバーはまったく気質が違っていて、出来上がった芝居はなんともヘンテコなものだった。紺足袋を履いていっぱしの裏方気取りの成蹊組のつくった趣味のいい舞台の上で、前衛かぶれの駒場組が真っ裸で「舞踏」を踊るというイオネスコだったから、おおよその想像はつくと思う。
この公演がきっかけになって、雑誌『現代詩手帳』に生まれてはじめての依頼原稿を載せてもらった。イオネスコとブレヒトとを同じまな板にのせて一緒くたに料理するなんとも乱暴な内容を、「徒労こそが美しいのだ」という一行で締めくくるという呆れたエッセイで、まともに相手をしてくれた編集部のことを思うと、いまでも顔が少し赤くなる。
『青い小劇場』は旗揚げの翌年、今度は芝居ではなく、日比谷野外外音楽堂でプロのミュージシャンを集めたジャズ・フェスチバル『燃えて 孤独る』(これまた凄いネーミング)
を主催したあと、見事、空中分解して果てた。

 

なにかというとパニックの発作を起こす、過呼吸症候群の手の付けられない「お騒がせ小僧」だった。

 

3.

 

十六歳。高校二年生。

 

古本屋で偶然みつけた「現代芸術思潮」についてのの軽装本シリーズ(出版社名もシリーズ名もすっかり忘れてしまった)にはまり込んだ。目の前に拡がる新しい世界の「現実性」にこころが踊った。
それをきっかけに、それまでの世界名作文芸路線から読書傾向が一変した。一読しただけでは内容が理解できない本への偏愛を、たとえば当時、久保覚という名編集者がいた現代思潮社の本などが存分に充たしてくれた。(ただし、現代思潮社の本はどれも定価が高くて、おかげで古本屋めぐりにえらく苦労した)
乱読に乱読を重ねるうちに、なんとなく「かたち」は出来上がっていく訳で、たとえばベケットよりはイオネスコ、サルトルよりはカミュ、小林秀雄よりは花田清輝、シュールレアリスムよりはダダ(って、どんな「かたち」だ?)という、その後、長くつづくことになる精神的な偏向はその頃に形成(あるいは、助長)されたものであった、と、いまにして思う。

 

目一杯背伸びした高校二年生は、しかしまた、まだ純情でもあった。

 

その年の六月、六十年安保闘争のクライマックス、六月十五日の国会議事堂突入にはじめて参加した。当初の意気込みはどこへやら、たった一度の警官隊との衝突に恐れをなして、すたこら現場を逃げ出した。
真夜中、逃げ帰った自宅でラジオ(おお、テレビはまだ一般家庭の常備品ではなかったのだ)の中継を聞いて、東大の女子学生がひとり、闘争の中で亡くなったことを知った。自分にたいする羞恥と屈辱で体が震えた。
一年後に流行語になる「挫折」を、幼いかたちではあったが、骨の髄までたっぷりと味あわされた、ということだろうか。

 

この時の経験は長く尾をひいた。「挫折」を克服して、もう一度目標に立ち向かうということにはならずに、自分は最後にかならず「逃げる」という確信のなかで、その根拠を必死にさがし求めるという、ずい分情けないような、長い道程のはじまりだった。

 

4.

 

『青い小劇場』結成の二年前、新宿のジャズ喫茶で知り合った俳優のすまけいさんたちと、劇団『ど』(これまたどーかと思うネーミングだが、発案者はぼくではない)を立ち上げた。十七歳。すまさんは少し年上の、はだけた黒シャツの胸元に金鎖を光らせた、どこかフランスの名優ルイ・ジュベの面影のある、恰好いい兄貴だった。

 

話がまとまった二カ月後、高円寺駅の駅舎の上にあった定員五十人ほどの小劇場で、慌ただしく旗揚げした。ぼくは下級生の不良少女を相方に、当日、たまたま劇場にあったピアノカバーを身にまとって、イオネスコの『授業』を全編即興(すなわち出任せの出鱈目)で演じ、観客席をつくづく呆れさせた。すまさんは、その当時、新宿のジャズ喫茶界隈の仲間うちで一目も二目も置かれていた「どもんじょ」(と皆が呼ぶ、ビート髭の幻の天才)作、演出の新作『日本の陰部にドイツの太陽が照り輝く』に主演したが、あまりの前衛作に演じている本人が途中でわけがわからなくなり、上演半ばで客席に向かって「ごめんなさい」と頭を下げて幕を下ろした。その姿がまた、何とも格好よかった。

 

旗揚げ公演の惨憺たる結末にも関わらず、すまさんとぼくはすぐに新しい仲間を誘って第二回公演の準備に入った。出し物をベケットの『ゴドーを待ちながら』に決めて本読みを二、三回重ねるうちに、集まった仲間の全員がポッツォー役を狙っていることが判明した。調整役のいないはてしのない議論のあと、劇団『ど』は静かに自然消滅した。

 

5.

 

一九六〇年代、新しいもの好きの好奇心をくすすぐる企画を次々にとりあげていた青山の草月ホールを自前で借りて、詩とジャズの会を企画した。二十歳。
ジャズの演奏は、前田憲男とウエストライナーズという一流中の一流コンボが、安いギャラでつき合ってくれた。
ジャック・ケラワックなど、アメリカの前衛的な現代詩(ビート詩と言っていたな)の訳者であった片桐ユズルさんにも、友人のつてで協力をお願いした。片桐さんは『専門家は保守的だ』という横組の洒落た評論集を出版したばかりで、内容の記憶はおぼろだが、このタイトルには決定的な影響を受けた。

 

ジャズと詩と舞踏との、いまでいうコラボレーションの当日、会場受け付けに現れて、「どうしてぼくのところに招待状が来ないのですか?」と詰問し、堂々、無料入場した不思議な人物がいた。植草甚一さんだった。
舞踏家の中島夏さんが客席に向かって次々に枕を放り投げ、出刃包丁を振り回すもうひとりの舞踊家に恐れをなした前田憲男さんがピアノを引きずって逃げ出しながらも演奏をつづけ、詩集を抱えて朗読に登場した片桐さんがいきなりつまずいて転ぶという、盛り沢山な内容の会だった。
企画の張本人であるぼくは、三メートルはある長いマフラーを首に巻いて、脚立に登ってギンズバーグの『吠える』を吠えた。やれやれ。

 

6.

 

中学生二年生の時、「考えてもよくわからないことは、はじめから考えないことにしよう」と決めて、かなり頑固に貫いてきた。「生きる意味や目的」とか「死とは何か」とか「神は存在するか」とか、ようするに簡単には結論が出そうにもない主題はとりあえずパスする。
ドストエフスキーをまったく読まずに過ごした脳天気な青春時代は、「煩悶」や「懐疑」からほど遠く、おかげで大分暇な時間が出来た。
その時間を、レビュー、寄席、ストリップ、軽演劇、映画、クラシックやジャズのコンサート、展覧会、新劇(以上、順不同ではない。ようするに、「肌もあらわな女の子が踊る」か「ゲラゲラ笑える」ものが上位)見物に費やした。
そうした中で、もっとも衝撃を受けたのは、いまはなくなってしまった日比谷の第一生命ホールでおこなわれた、『650エクスペリエンスの会』(定員六百五十人のホールで「体験」する会)で出会った土方巽さんの「暗黒舞踏」だった。
後年の白塗り半眼の舞踏スタイルではなくて、見るからに精悍な土方さんをはじめ全裸に近い男性舞踊手たちが、全身黒塗り、くわっと眼を開いて踊る「暗黒舞踏」はパンクだった。舞台の上ではなにをやってもいい、という単純明快なメッセージだと興奮した。
即座に、見よう見まねの自己流舞踏をあらゆる機会に(というかスキを狙って)即興的に踊りだしてしまう、「お騒がせ舞踏小僧」がひとり出来上がった。
二十三歳でアンダー・グラウンド・シアター「自由劇場」の旗揚げに参画するまで、ぼくは何よりもまず、まぎれもない流しの舞踏ダンサーだったのである。

 

7.

 

高校を出て、俳優学校(俳優座養成所)と同時に早稲田の夜学(第二文学部西洋哲学専修)に通いはじめた。
大学でびっくりしたのは、授業がもの凄く難しいということだった。どの講義に出席しても、教師の喋っていることの大半が理解できない。卒業までは到底もたないと、入学後三ケ月もたたないうちに、あきらめの境地にいたった。
もっとも、大学入学のいちばんの動機は勉強ではなく、当時の学生運動に参加することだった。「ダンサーの革命家」か「革命家のダンサー」か。ようするに頭にあったのはその類のロマンチックな妄想だったのだと思う。入学してわかったのだが、目当てにしていたセクト(学生運動の党派)は、早稲田ではひどく勢力のない弱小グループだった。とにかく全学あわせても七、八人位のメンバーしかいない。
それでも毎日部屋に通って、「これからの運動は学生と労働者との連体が必要だと思う」とか、聞きかじりの幼い主張を一所懸命に喋った。「じゃ、君には労対(労働者対策)を手伝ってもらおうか」。ある日、会議にやってきた年長のセクトの幹部がにこやかに言った。
毎週一回、やさしい声の幹部の電話にたたき起こされ、東京駅丸の内南口の中央郵便局に出勤する職員たちに向かって二千枚ほどのビラをたったひとりで配る、「戦闘的革命家」の日々が始まった。

 

(つづく)