2.

十九歳の時、『青い小劇場』(うーむ。凄い名前だな)という劇団を立ち上げた。当時通っていた俳優座養成所の仲間たち、ぼくの出身校都立駒場高校の遊び仲間、養成所に入ってすぐ友だちになった串田和美の成蹊高校時代の演劇仲間、と、総勢五十人ほどがわやわやと集まって、とにかく一本芝居をでっち上げた。
出し物はイオネスコの『無給の殺し屋』、串田の美術、ぼくの演出で、お茶の水にあった旧日仏会館ホールでの上演だった。
プロ志望者の集まりである養成所のメンバーはともかく、都立駒場高校からと成蹊高校からのメンバーはまったく気質が違っていて、出来上がった芝居はなんともヘンテコなものだった。紺足袋を履いていっぱしの裏方気取りの成蹊組のつくった趣味のいい舞台の上で、前衛かぶれの駒場組が真っ裸で「舞踏」を踊るというイオネスコだったから、おおよその想像はつくと思う。
この公演がきっかけになって、雑誌『現代詩手帳』に生まれてはじめての依頼原稿を載せてもらった。イオネスコとブレヒトとを同じまな板にのせて一緒くたに料理するなんとも乱暴な内容を、「徒労こそが美しいのだ」という一行で締めくくるという呆れたエッセイで、まともに相手をしてくれた編集部のことを思うと、いまでも顔が少し赤くなる。
『青い小劇場』は旗揚げの翌年、今度は芝居ではなく、日比谷野外外音楽堂でプロのミュージシャンを集めたジャズ・フェスチバル『燃えて 孤独る』(これまた凄いネーミング)
を主催したあと、見事、空中分解して果てた。

なにかというとパニックの発作を起こす、過呼吸症候群の手の付けられない「お騒がせ小僧」だった。


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