ベケット問題
「テアトロ」 2006年10月号

 ベケット問題である。なにしろベケットである。問題は多いのである。そもそも、その問題がどのような問題であるのか、それが問題となるほどの問題なのだから。
 そんなことはない。そんなに七面倒くさく考えなくても、テキスト通りにさらっとふつうにやれば、それだけで面白い芝居になるはずだ。そうかも知れない、とも思う。
 しかし、なかなかうまくは問屋が卸してくれない。「書いてある通り」といっても、たとえばあの「間」についてはどうだろう。
 二〇〇〇年の暮れ、エストラゴンを柄本明、ヴラジーミルを石橋蓮司という配役で、『ゴドーを待ちながら』を上演した(世田谷パブリックシアター)。稽古に入ってすぐに、ト書きに示された「間」や「沈黙」が問題になった。『ゴドーを待ちながら』には、その上、「休憩」というト書きまである。
 おびただしい数の「間」と「沈黙」と「休憩」とを「さらっとふつうにやる」。どうやって? 柄本明も石橋蓮司もぼくも、大いに悩み、苦労した。「間」のおかしさ、「沈黙」のとまどい、「休憩」の脱力。いろいろ試したり、考え込んだりした。
 今年の九月に上演する『エンドゲーム』(シアター・トラム)には、この「間」について、さらに倍する指定がある。

 ハム ……あったなきっと。昔はな。だが今はどうじゃ?(間)わたしの父親か?(間)母親か?(間)わたしの……犬か?(間)いやいやあいつらだってあいつらなりに苦しんでいると信じてつかわそう。しかしやつらの苦しみがわたしと同じということになるだろうか? なるなきっと。(間)いや、すべてにおいてあ(あくびをする)っとうてきなのだ。(自慢げに)大物ほど中身が濃いものじゃ。(間。暗く)そして鼻をくんくん利かせて)クロヴ!(間)いない、独りか。(間)なんて夢だよ!……(『エンドゲーム』岡室美奈子、訳。傍点、佐藤)

 文字で読んでいる分には、ふつうの息つぎ程度のことでなんとか読み進めないでもない。けれども、実際の舞台ではそうはいかない。指定されている「間」は、舞台上の時間と空間、そしてそこにある俳優の体を通して、ひとつひとつ、具体的に立ちあらわれなければならない。
 可能だろうか。不可能ではないだろう。俳優たちはそれぞれの演劇的な経験と技量を駆使して、なんとかやりとげてくれるかも知れない。しかし何のために?
 ベケット問題の問題たるゆえんは、まさしく、そこにある。「何のために?」……答えるのは難しい。
 『ゴドーを待ちながら』や『エンドゲーム』には、登場人物たちが、自分の演じている劇そのものを相対化するようなせりふや場面がいくつかある。まるで登場人物たちがそこにいて、かろうじて言葉を発し、わずかな身振りで行為するのは、ただ「それが演劇だから」という、身も蓋もないような理由によるとでもいうように。

クロヴ なんでここにいなきゃいけないんだよ?
ハム これ、掛け合いの場面だからな。(『エンドゲーム』岡室美奈子、訳。傍点、佐藤)


 「田舎道。一本の木」(『ゴドーを待ちながら』)から「がらんとした室内。グレーのライト」(『エンドゲーム』)まで、ベケットの世界には外部がない。正確にいえば、目の前にあるかのように見える舞台上の世界もまた、本質的には、ベケットによって容赦なく灰色に塗りつぶされた、行為と言葉とを奪われた世界であるように見える。
 ベケットのテキストにある「間」や「沈黙」は、描かれている劇にふくまれているというよりも、その向こう側に垣間見られる、そのような世界そのものなのかも知れない。

 生誕一〇〇年をむかえたこんにち、ベケットは依然として、彼自身があらかじめ解答を封印した問いを問いつづけている。あたかも、ベケット問題へのさまざまな応答が、それ自体、少々間の抜けた喜劇であるのを楽しんででもいるかのように。

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