師 観世榮夫

「邯鄲」に託して

ぼくはとうとう拝見できなかったのだが、今年の五月、国立能楽堂で『邯鄲』の上演があった。シテは観世榮夫さん。見逃すにはいかにも惜しい演目だった。
 観世榮夫さんはぼくの「師匠」である。ぼくはひとり、勝手にそうこころに決めている。いまから四十年前、俳優座養成所という演劇学校で、謡を教えていただいたのが出会いだった。
 当時、榮夫さん(と、慣れ親しんだ呼び方をお許しいただきたい)は、能界を離れて、現代演劇を中心に、舞踊、音楽、映画、放送と幅広い分野で、たくさんの個性的な仕事を活発に繰りひろげていらっしゃった。なかでも、劇作家の福田善之さんや宮本研さんらと組んだ「劇団青芸」での一連の演出作品は、その清新な気概によって、ぼくたち、当時の演劇青年たちに、さまざまな意味でつよい影響をあたえた。
 養成所を卒業後、一方的な「おしかけ弟子」としてつきまとうのを厭いもせず、鼻っぱしらばかりが勇ましい駆け出しに、いまから思えば贅沢極まりない経験を積ませていただいた数年間。いくつもの場面が次から次へと思い浮かぶ。しかしここでは、それを述べるのが趣旨ではない。
 ただひとつ、商業演劇の演出助手として連れて行っていただいた京都での思い出だけは、記しておいてもいいかも知れない。ある日、稽古を終えて、高名な料理屋のカウンターで夕食をご馳走になっていたとき、たまたま隣り合ったいかにも京の旦那衆といった風情の紳士から、「師匠につかえる弟子の心得」について諄々と説かれた。いただいた言葉の真意は真意として、ぼくはあの晩、間違いなく、見ず知らずの第三者から、榮夫さんの「弟子」として認知されたのだった。
 一九七九年(昭和五十四年)の年の暮れに、足かけ二十三年の歳月を経て、榮夫さんは能界に復帰された。演目は『楊貴妃』。会場は宝生能楽堂だったと思う。舞台にも見所にも、いま思い出しても息苦しくなるほどの緊張感の張りつめた、ふだんとはまったく違う雰囲気に包まれての演能だった。
 終演後の宴で、狂言の野村万作さんが、いささか酔われた態で、「能はむつかしい」としみじみおっしゃったひと言が、まるで昨日のことのように、いまだにはっきりと耳に残っている。
 そして、翌八〇年二月、観世能楽堂での復帰三演目の演目が『邯鄲』だった。

 

うき世の旅に迷ひきて
うき世の旅に迷ひきて
夢路をいつと定めん

 

 不肖の「弟子」であるぼくは、これまで接してきた「師匠」のもうひとつの顔、能役者、観世榮夫とそこで出会った。
 ひと言でいえば、「演ずることの喜びに満ちあふれた舞台」。演じるという行為がほんらいはらむ精気と、演者の自由で奔放な精神とが一体となった、軽やかで、伸びやかな演能だった。『邯鄲』という作品が見据える人生への深い洞察よりも、あたかも、人間がとらわれ、しばしばそこに救いさえも託す、「夢」そのものの実相を現出させることにのみ意を用いたような、不思議と言えば不思議、しかし、充分に魅力的で納得できる世界がそこにあった。
 それ以来、ぼくは、決して熱心な榮夫さんの観客とはいえない。ただ、四半世紀前の『邯鄲』の面影を追いながら、舞台にあることの自由について、観世榮夫という希有な先達の跡を追う「弟子」のひとりでありたいと、ひたすらに思いつづけている。

 

げに有難や邯鄲の
夢の世ぞと悟り得て
望かなへて帰りけり

 

「国立能楽堂」(№277) 2006年9月